ユリアーモ体験記九日目 Naŭa Tago

最近のことになるが、エスペラント語検定に挑戦する猛者が増えているらしい。これは恐らく、『ことのはアムリラート』で学習意欲(という名の欲望)に火のついたヴィジタント達がエスペラント業界に参列してきているからだと思われる。

ところで、実際のところ『ことのはアムリラート』でプレイして検定合格できるのだろうか。検定経験者のSによれば「ゲーム単体だけの知識では難しい。”攻略本”を読み込んでおく必要がある」とのことだった。下記が代表的な所謂「攻略本」である(*あくまで通称でありSukera Sparo様から出版されている正式な攻略本ではないことに注意!)

さて、なぜゲームだけでは検定は攻略できないのだろうか?答えは至極単純だ:ゲーム自体がエスペラント語の学習目的のために作られていないから、である。実際、これでおよそ9日のプレイ日記を書き溜めてきたが、ゲーム中に全ての文法が説明されているわけではないということがわかってきた。しかし、それに何の問題があろうか?我々プレイヤーの目標はいかにルカを籠絡するか(と信じている)であり、検定試験が目的ではないことを思い出して欲しい。

一方で事実、勉強モードがなく、ゲームの中でちょこっとだけ顔を出している文法がある。それを身につけるとエスペラント語の語彙力は爆発的にあがり、勉強が楽しくなることは間違いない(ただ強調しておくがゲームプレイにはあまり役に立たない)。加えて、二次創作などにも役立てられる。そのような文法事項はいろいろあるのだが、今回特に触れておきたいのは下記の文法だ。

それは「分詞」である。実は劇中で「あるよあるよ、ありえないって!X( 」と凜が大量の接尾辞に悶絶するシーンがあるが、実はその接尾辞の山の中に「分詞」が紛れているのである。

実はこのシーンで上げられている多くの接尾辞は、基本、名詞につくものがほとんどだ。実際その一つの使い方はすでに序盤でルカに無理やり(?)習わされている。「パネーヨ(pan-ejo)」のところと言えばわかっていただけるだろうか?

この”-ej-“というのはどうやらドイツ語の”-ei”という接尾辞が元になっているらしい。例えばドイツ語で「パン職人」は”Bäcker”であるが「パン屋(パンを焼き、製造する場所)」となるとこれに”-ei”がついた”Bäckerei”となる。

エスペラント語にはまだまだ、この”-ej-“以外にも様々な接尾辞がある。その中には「動詞」にくっついて、形や意味を変える接尾辞が少しある。これが前述した「分詞」である。これには色々な使い道があるが、例えば名詞を表す”-o”と組み合わせて「〜する人/もの」という意味の名詞を作れる。

代表的な分詞を用いた単語はやはり:

vizitanto

…になるだろう。この名詞は”vizit-“という動詞の後ろに”-ant-“という語尾をくっつけて作られている。”viziti”は「訪問する」「訪れる」という意味なので、これに現在形の「〜をする」という分詞”-ant”と名詞を表す”-o”が組み合わさっているのである。改めて組み合わせを書くと次のようになる:

vizit/ant/o

…となる。この時間の表現は動詞の語尾と同じで、”-ant-“の”a”を他の母音に交換すればいい。とても簡単だ。”vizit-“の例の一覧を作ると、次のようになる。


vizit-ant-o 

現在 「訪れる人、訪問する人、訪問者(アムリラート用語)」

 
vizit-int-o

過去 「訪れた人、訪問してきた人」

 
vizit-ont-o

未来 「訪問してくる人、訪問するつもりの人」

さらにこの仲間には受動「〜られる、〜される」という意味をしめす分詞”-at-“,”-it-“、それから”-ot-“がいる。そして、さらにそれらの語尾を名詞の”-o”ではなく形容詞の”-a”や副詞の”-e”に変えると…?これから先は初級終盤、中級レベルになると思うのでここで止めておく。

いずれにしても分詞を覚えると、このように表現がグッと広がるのだ。レベルが上がると分詞を使って接続詞を省略したり、関係代名詞を省略したりと、よりハイレベルで文学的な表現が可能となる。これであなたもエスペラント語の世界へのヴィジトントになったと思う。

ゲームのエンディングももちろんのこと、文法の学習も一気に進めたいと思いませんか?

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(イベント/Okazaĵo)アムリラート座談会~エスペラント×ユリアーモ~2

ユリアーモの異世界を飛び越えて、現実世界でエスペラント語を体験してみよう!
エスペラント語を使ってユリアーモの異世界に入り込んでみよう!
異世界と現実世界との奇妙な会合!

『アムリラート座談会~エスペラント×ユリアーモ~』の参加者募集が始まりました!参加希望者の受付は、下記リンクのSukera Sparo様の公式ホームページで行っています。

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ユリアーモ体験記八日目 Oka Tago


『ことのはアムリラート』と「語学」をかける。その心は何だろう?

再度容赦ないユリアーモの授業が開始された。再び数字や基本的な挨拶などの予習を行い、一般的な会話を想定した定型文句の勉強も終えた。

実は一週目のころは見てもユリアーモの文面を見てもなぜそういうのかが理解できず、「何かあるんだろうな」程度の認識しかできなかったところがあった。そして、二週目にしてそのような疑問が氷解したところがあった。しかもそれはエスペラント語/ユリアーモにある程度の知識がないとわからない点ではないかと思うので、まずこれをプレイしながら紹介したい。次に、一週目に凜がおもしろいところに着目していたので、通りかかった縁でこちらもクローズアップしたい。

レイがなぜ冠詞をつけていたのか

まず”Administracio por Vizitantoj” すなわち、日本語では『ヴィジタント管理局』とでも言えばいいのだろうか?そこにお勤めしているレイさんのセリフ。恐らく一週目では大抵は何を言っているか本当に分からず、「??」な状態になるかと思う。個人的に着目していただきたいのは、ここで”La fama fraŭlino”とあるように凜のことを定冠詞付きで「あの有名な女の子」と呼んでいることだ。

定冠詞は往々にして、くっついた言葉を限定させる機能がある。劇中では確か「あの」というように訳されていたと思う。そして上でも「あの」を使って訳したが実は冠詞ワールドは奥が深く、どんな言語であろうとも「あの」と直訳で覚えることはオススメしない、というのが個人の考えである。冠詞はかなり奥深い。例えばドイツ語学者の関口在男という人は冠詞についての本を三巻編成で出版しており、冠詞の研究だけなのに総ページ数は二千ページを超えてしまう。それぐらいこの要素は複雑だと推察できよう。逆にこの定冠詞の深さを少しでも知ることにより「あの」という平坦な理解だけはない、奥深いレイさんの言葉の意味を知ることができるようになる。

冠詞抜きはストーリーを崩壊させる?

例えばここでもし冠詞がないとどういうことになるか想像できるだろうか?まず第一にここで重要なのが、凜を説明するために”la”が必要となる、ということだ。いわゆる「同格表現」というもので、「次に来る名詞を説明しているんですよ。次の名詞を確認してね!」というマークとして冠詞が使われるパターンである。例えばここでは「あの凛という有名な女の子」という文でいう「あの〜という」に相当する機能を果たしている。従って、ここでもし冠詞がなかったら、「この世界には凛という名前の名の知られた少女が複数いて、その中の一人かどうかをレイさんが確認した」というような形になるかもしれない。細かく言えば、凛という名詞が例えば「犬」や「車」のような一般名詞になってしまったように感じるかもしれない。そのため、文法的に意味がストーリーにそぐわなくなり意味がおかしくなるだろう。

第二に”la”の限定性について。冠詞がない名詞は多かれ少なかれ、情報が今まで出たことがないと考えられる可能性が出てくる。あるいは世の中にあるすべての中から何でもいいからそのうちの一つ、という無作為さがあると考えられる。従って、そうではないということはこの時点ですでに、レイが凜について心の中で”fama”かつ限定された情報になるまで聞かされている、ということが暗示されている。

さて、これは一体どういうことかというと…というのはストーリーを進めればよく分かるようになるので、ここでは敢えて言わない。愛の力(?)は恐ろしいものだ。いずれにせよ、ここで”la”が有る無しはこのシーンの深みとストーリーの時間的な長さに大きな影響を与えていると言える。

「大地の果実」のおはなし

ところで、語学で自分の知っている言葉の概念とまったく違う表現に遭遇すると思わず「えっ!」と驚いてしまうことがある。凜の場合はどうやら「ジャガイモ(terpomo)」だったようだ。

この単語を直訳すると「大地のりんご」となる。恐らくフランス語を勉強したことがある人はこの組み合わせを見て「さてはフランス語の”pomme de terre”から借用したな」と考えることだろう。フランス語も「大地のりんご」という意味の単語を使うからだ。そして、ザメンホフが書いた教科書の言葉の一つがフランス語であったことから、その推測は間違ってはいないだろうと考える。

ただ、ここでこの「大地のりんご」とは日本語でいう、すなわち「ジャガイモ」のことである、という理解を示すのはフランス語だけではない、ということはご記憶されたい。実は筆者が知っている範囲でいうと、現在の西欧には南アメリカのナワトル語由来の”potato”のように呼ぶ表現もあれば、「大地のりんご」パターンもあるし、第三には「大地の梨」のように呼ぶパターンもある第四にはドイツ語の”Kartoffel”みたいな変形パターンもある(こっちはキノコと関係する:キノコ系)。例えば二番目の表現に関して言えばフランス語だけでなく、オランダ語やドイツ語の方言でも「大地のりんご」という単語を使うことがある、ということは言語の歴史としても教養としても重要だと思う。

筆者はラテン語学者ではないので正確には言えないが、そもそもWikipediaを確認すると、ラテン語でも複数の呼び方が見られる。例えば”pomum”や”patata(新ラテン語?)”、それから”pomum terrestre”である。後者は形を見ればわかるように「大地のりんご」系である。

実はジャガイモがヨーロッパに現れるのは16~17世紀(1)なので、“potato”という単語は比較的新しい部類に入るのではないかと思う。例えばヨーロッパの中でも断トツの古さを誇るアイスランド語(千年くらい言葉の形がほぼ変わっていない)でもWikipediaによれば「大地のりんご( jarðepli)」、ないしはドイツ語の仲間の”kartafla”を使っている。従って、歴史的に古いのは恐らく「大地のりんご系」と「きのこ系」なのではないかと推測する。

りんごは「くだもの」

実は重要な点として、そもそもラテン語の”pomum”はりんごではなく「くだもの」という意味だったことが挙げられる。それが時が経つにつれ、「りんご」の意味に限定されていったと考えられる。一方で例えばヨーロッパとイスラム圏の狭間に位置するアルバニア語では、”pomum”に連なる単語”pemë”を「木」という意味に使っているようだ。このことから欧州太古の「くだもの」は文化圏ごと、言語ごとに異なった変化を遂げていったと言える。

冤罪のはじまり

それでは「りんご」そのものはラテン語では何といったのかというと古代ローマ世界では”malum”と言っていたようだ。この単語の頭の”mal-“はピンと来る方もいると思うが、ユリアーモ/エスペラント語の”mal-“とも関係している。
実はヨーロッパの文化史においてこのくだものは最上級の冤罪をなすりつけられていると言えるだろう。聖書の有名な逸話で「アダムとイヴが禁断の果実を食べる」というシーンがあるのだが、挿絵や絵画では禁断の果実をりんごとして描写していることがある。実はラテン語では少なくとも「りんごを食べた」とは書かれていない。例えば

de ligno autem scientiae boni et mali (然して善悪の知識の木から)”

というように書かれているが、りんごのことではない。誰が言出屁かはわからないが、この”mali(悪の)”という単語を「りんご」が変化した「りんごの」という形の単語と勘違いし、誤訳したことから欧州の文化に「禁断の果実=りんご」という認識が広まったとされる。まさに冤罪である。

りんごは「めろん」?

ちなみに文献不明のWiktionaryにて語られている話をまとめると、”malum”をさらに遡ると古代のギリシャ語の”μῆλον(くだもの)”と関係があるとされる。どうもこれはメロンの語源とも関係しているだけでなく、この単語が例えばヒッタイト語の”mahla(ぶどう)”とも関連していることから、どうやら欧州の「りんご」はギリシャ語という言葉が成立する前の古代の地中海世界の起源ではないかと考えられるらしい。とても壮大な話になる。できたら古典ギリシャ語語源辞典が欲しいところだ。

語学は禁断の果実?

『ことのはアムリラート』と「語学」をかけて、その心はなにかと問われれば「禁断の果実」かもしれない。

Twitter上で確認できるが、『ことのはアムリラート』をプレイしたことによりユリアーモからエスペラント語自体にも興味を持っていただいた方もちらほらと見られる。人によってはガチでエスペラント語を勉強した上でユリアーモで二次小説を書いてしまうつわものもいらっしゃるようだ。上記でお話を書いてきたように本当に好きな人はずるずるとその世界にはまり込んでしまう。また、同時に熱心なプレーヤーの方がルカを籠絡したいと思うのであれば、否が応でもユリアーモを学ばないといけない。両方ともある意味ではかじったら最後、とことんやらないといけない禁断の果実ルートなのである。

聖書で禁断の実を食べたアダムとイヴは追放という楽しい終わり方を迎えなかった。筆者も一週目ではネット上で語られるいわゆる「ブランコED」で、非常に心が晴れない終わり方を迎えた。そのため、二週目ではより幸せなエンディングを迎えられたらいいと願ってやまない。そのため、現在は再度レイさんからもらった不定詞の勉強を黙々とこなしている。

というか、レイさんルートはあるのだろうか?
黙々。

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(1)伊藤章治『ジャガイモの世界史』中公新書(2008)

ユリアーモ体験記七日目 Sepa Tago

ユリアーモの文字にも慣れてきた。さすがに二周目だからか文字にも抵抗がさほどなくなり、以前よりも軽快に読み解けるようになった。凜がユリアーモの文字を多少、和製人工言語「ボアーボム」のように読んでも驚かない。まさに強くてニューゲームの状態といえよう。

ユリアーモとエスペラント語の違い

一週目が終わりエスペラント語をかじっている人間として、このゲームの中で使われている「ユリアーモ」についておおよそわかったことがある。エスペラント語と比べて、ユリアーモがどれほどエスペラント語と離れているのか、というは理解できた。完全に攻略してはいないので、今のところ得られた感覚にとどめるが、おおよそ下記の通りだと思われる。

1)エスペラント語とユリアーモは「ほぼ」同じ;
文法や発音規則などは一緒
2)それぞれお互いに独自の文字を使っている
3)一部エスペラント語と違う意味で用いる単語がある;
それは大抵「ことのはアムリラート」の専門用語である

特に冒頭で言及したように、文字の違いは言葉の理解に大きな影響を与えており、エスペランティストであってもユリアーモの読解には幾らかの時間が必要であろう。この差を埋めるために、Sukera Sparo様がホームページで公開しているフォントのzipについてくる資料が役に立つ。

エスペラント語のプロトタイプ時代

そもそも、エスペラント語の文字はもともと、今のユリアーモに綺麗に対応できる形で誕生したわけではなかった。実はエスペラント語には「プラエスペラント」と呼ばれている時代がある。それは専ら、エスペラント語が生まれた1887年以前を指す。

その時代の頃の綴りはどういうものだったかというと、現在のエスペラント語とはあまり似ていない。例えば1881年のザメンホフのプロトタイプの人工言語にはdźやśのようなポーランド語のアルファベットが使われており、現在のエスペラント語とはかけ離れている。また、エスペラント語版のプラエスペラント語のページによれば、その当時人工言語業界に一斉を風靡していたヴォラピュクの影響があると見られる上に、ロシア語やポーランド語といったスラヴ語系の要素が今よりも一層強かったようだ(1)。今のエスペラント語はなかなかに難産であったことが伺える。

ヨーロッパ諸言語の綴りの「バベル性」

ところで、現在のエスペラント語はといえば、プラエスペラント時代と比較すれば分かる通り、”「一音一字」になっている(2)”。が、よく見てみるとエスペラント語は見慣れない独自のアルファベットを採用している。疑問に思われたことがある人もいるかもしれないが、なぜ英語と同じようなアルファベットを採用しないのだろうか。ザメンホフがこの点について言及した資料は知らない。しかし、大方次のような理由だと予想できる:同じ文字を使うヨーロッパの諸言語ですら文字とそれに対応する発音が言語間で一致していないからだ。

例えば英語の”w”はエスペラント語の”ŭ”に相当するが、ドイツ語やポーランド語では”w”はエスペラント語でいう”v”の音を表すことが普通だ。また英語のアルファベットの”j”はドイツ語であれば英語の”y”の音になるし、スペイン語で”j”はエスペラント語でいう”ĥ”の音を表す。またドイツ語の”u”に相当するフランス語のアルファベットは”ou”であるように、言語によっては一つの音を表すために複数のアルファベットを組み合わせているケースもある。このようにヨーロッパの中ですらバベルの如く、文字と発音は言葉によって違っているのである。それならば多少の記号をつけてもいいから、「一音に集約して、これは絶対にこの音を表す!」と決めてしまった方が効率的と思えないだろうか?

今でこそ飛行機やインターネットが発達してしまっているので、エスペラント語の使用者として世界のあらゆる言葉とその民族を意識した場合、「本当に中立な言葉なのか?」と疑われてしまうのは仕方がないと思う。しかし、130年前のヨーロッパだけという言語環境を考えると、エスペラント語というのはそれなりに良くデザインされた言葉、と考えられないだろうか。

プレイに戻って

「ユリアーモ」がなぜそういう名前なのか、ということもストーリーでは語られていた。しかし、それは個人でのプレイ中に楽しんでいただく内容なのでここでは控えよう。以前と比べて、看板の文字がユリアーモで書かれていてもどぎまぎすることは減ったのだから、より一層「ことのはアムリラート」の世界に没入できることを期待したい。

(1)Pra-Esperanto https://eo.wikipedia.org/wiki/Pra-Esperanto#cite_note-CK-1
(2)藤巻謙一(2012)『改訂版 まるごとエスペラント文法』日本エスペラント協会

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ユリアーモ体験記六日目 Sesa Tago

一体どこでボタンを掛け違えたのだろうか。いつも最上の選択をしてきたつもりだった。自分の善意に忠実に選択してきたはずだった。しかし、その終わり方はあまり晴れ晴れとしない。この心の中のわだかまりはなんなんだろうか。凜の表情は冴えない。心には影。しかし、もう戻れない。凜は大切なものを棄てる選択をしたのだから…

プレイ日記六日目にしてとうとう一つのエンディングを迎えた。しかしながら、何かが悪かったようで大円団とはならなかった。もしかしたら掛け違えたボタンは唯一間違えた「ボール」だったのかもしれない。あるいは体の部位の勉強で触りすぎてルカの好感度が下がるフラグが立ってしまったのかもしれない。色々思うところはあるが、ハッピーエンドを期待していた筆者にとって、しこりが残るエンディングを迎えたのは意外だった。凜と私は単なる道化に過ぎなかったのだろうか。

この結末を迎えて頭に浮かんだのは次の言葉だ。ハムレットの『マクベス』の有名な台詞である。散々努力した結果、エンディングでは予想していた結末と違っていた、という想いからだ。

消えろ、消えろ、つかの間の燈し火!
人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。
あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、
みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのとまりは消えてなくなる。
白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、
何の取りとめもありはせぬ。
(シェイクスピア、福田垣存訳『マクベス』新潮出版,1969)

ところで、エスペラント語ではどうなのだろうか。エスペラント語版は1908年にイギリスでダニエル・ヘンリー・ランバートというエスペランティストが初期の近代英語からエスペラント語へ翻訳している。彼は英国エスペラント協会を設立した初期メンバーの一人でもある。翻訳したものはグーテンベルク・プロジェクトで掲載されている。

Mallongviva
Kandelo, estingiĝu! Ĉar la homo
Promenas kvazaŭ moviĝanta ombro,
La rolon ludas de aktor’ mallerta,
Sur la scenej’ ne longe grimacanta,
Kaj poste malaperas. Homa vivo
Nur estas la rakont’ de malsaĝulo,
Freneze sensencaĵojn krieganta
Sen ritmo kaj sen celo.

そしてグーテンベルク・プロジェクトに載せられているシェイクスピア原文は下記の通りである:

Out, out, breefe Candle,
Life’s but a walking Shadow, a poore Player,
That struts and frets his houre vpon the Stage,
And then is heard no more. It is a Tale
Told by an Ideot, full of sound and fury
Signifying nothing.

ランバートがシェイクスピアをどれくらい研究したのか筆者は知らない。しかしながら、例えば日本語と英語を比較すると、日本語訳は英語原文をよく意識されていることが、例えば”out,out”の繰り返しなどから分かる。

一方でランバートのエスペラント語の翻訳はよく分析されているが、説明くさい。説明的な翻訳が目につくのである。例えば”Life’s but a walking Shadow(人生とは然し歩き回る影である)“という文はエスペラント語では、どういういわけか”Ĉar la homo promenas kvazaŭ moviĝanta ombro(何故なら人はあたかも動きまわる影の如く歩くからだ)”とされており、原文の暗喩の美しさが失われてしまっている。このセリフは劇の重要なセリフであるとともに、ニヒリズム的性格の思想が見え隠れする、作者シェイクスピアの人生観を表すものと考えられる。そのため、このランバートの訳の評価は厳しいのではないだろうか(想像だが、この人は劇場に足を運ばず、机の上で本だけを見て、初期英語の辞書を引きながら頑張って翻訳を進めたのかもしれない)。

しかしながら、文学の翻訳活動は初期のエスペラント語文学にとって重要なことだった。何故ならエスペラント語はその特質から、古英語の『ベーオウルフ』や日本の『古事記』のような民族を母体とした文学作品が発生し得ないからだ。従って、自分で作るしかない。

方法は二つ:一つはオリジナルを作ること。実際、初期(19世紀後期)のザメンホフを筆頭とした最初期のエスペランティストたちは、ザメンホフの最初のエスペラント語詩”Ho mia koro”のように、自分で詩作を行っていた。二つ目は上記で述べられてきた翻訳だ。例えばザメンホフはUnua libroの頃から『ハムレット』やハイネの詩、『聖書』の翻訳に精力的だった。世界の文学をエスペラント語に取り込むことにより、エスペラント語がより進化すると考えていたのかもしれない。

そのような流れの中でイギリスからランバートの『マクベス』が出てきたのであれば、エスペラント語の文学史として評価に値するものではないのだろうか。

最近ではありがたいことに『ことのはアムリラート』が話題に上ることが多く、二次創作小説も少しづつ増えてきた。日常的にエスペラント語(ただし、ユリアーモ文字だが)を見かけるようになったのは嬉しいことである。これは単純に「ことのは」ファンによる同人作品という一点で捉えることもできれば、エスペラント語をより進化させるための活動になるのではなかろうかと思案することもできる。そのような意味で、私たちはエスペラント語の歴史の最先端を歩んでいるのである。

さて、ハッピーエンディングはあるのか探さねばなるまい。やはり一線を越えず、プラトニックな関係を続ける選択をしてみようか。また冒険に出かけよう。凜をマクベスの言う”あわれな役者”にさせないために。

*ユリアーモ変換プログラムは夏野すぐる様に使用の許可を頂きました。感謝申し上げます。
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ユリアーモ体験記五日目 Kvina Tago


司書さんのレイさんが涙を流した。

ちょっとしたことで二人っきりでユリアーモを教えてもらうことになった。ルカとは違い、コミュニケーションが取れることが幸いし、物語がスムーズになったように感じる。恐らくそれは筆者だけでなく、圧倒的な文法の練習や単語の波に押し流され、溺死しようになっているプレイヤーの方々にも彼女のレクチャーは本当に貴重なものになっているに違いない(多分、もしレイルートがあるとしたならば、ここでルカからルートを乗り換えようとした人もいるだろう)。

そして、文法だけでなく、『ことのはアムリラート』の世界の全容が徐々に明らかになってきた。どのような世界なのか、レイさんは何者なのか、ユリアーモとはなんなのか、「エスペラント」とは何なのか。いろいろあるがここでは多くを語るまい。

そして、レイさんが泣いた理由。貴方がその理由を知るためには、鬼のようなレッスンを乗り越えるしかないのだ…!

あとゲームがどれくらい続くのかは分からない。ここで私たちができることはレイさんが教えてくれたユリアーモを一生懸命に復習し、バッドエンドに持ち込まないことしかないだろう。


例えばレイさんには不定詞を教わった。不定詞といえばありていに言うと辞書の見出しに載る動詞の形のことだ。英語の授業でももしかしたら”to 不定詞”というような名前で教わっているかもしれない。

オックスフォードから出ているP.H.Matthewsの『簡約言語学辞典(Concise Dictionary of Linguistics)』の説明部分の一番頭の部分にはこう書いてある:不定詞とは「他一方の動詞に従属する他の構造に置かれているか、あるいはある節で特徴的に用いられる”定まっていない”動詞の形のことである」とのこと。うーん、説明したいのか説明したくないのか。

なぜ「定まっていないこと」がこんなに強調されるのか?「不定詞」については次のように考えられる。第一に、エスペラント語の基となったヨーロッパの言葉の動詞と日本語の動詞との根底的な違いは、話し手の情報が動詞の形に含まれているのが大きな違いだと考える。例えばいわゆる「人称」、すなわち「誰がしゃべっているのか」や「その人は一人なのかたくさんいるのか」ということはヨーロッパの言葉の変化には強く影響するが、日本語でそれらについて動詞の形から読み取るのは難しい。すなわち、ヨーロッパの言葉の動詞にはそのような情報が組み込まれているのが当たり前なのである。一方で、いわゆる「不定詞」は形を見ても動詞であること以上の条件が全く読み取れない。どこの誰で何人が主語なのかパッと見て分からず、人についての情報が定まっていないように見える。このような観点からすると確かに「不定」な言葉と呼ばれるのも納得がいくのではないだろうか?

さて、レイさんが解説してくれるように、不定詞の一番大きな使用法は日本語でいう「〜すること」という意味に使うことだ。例えば:

Paroli“「しゃべること」

…というように。これに目的語もつけらえる。そして「〜は〜である」を意味する”estas”を組み合わせると、例えば次のようになる。

Paroli Juliamon estas interese*” 「ユリアーモをしゃべることは興味深い/おもしろい」

…となる。

二番目に、といっても一番目と同じくらい使用頻度は高いのだがいわゆる「補語」として使われることも多い。主語や目的語の補足説明のために置かれる単語のことである。例えば:

1.Mia hobio estas legi 「私の趣味は読むことだ」

さらに一番でも例文で触れられているが目的語もつなげられる:
2.Mia hobio estas legi libron 「私の趣味は読書/本を読むことだ」

上記の場合、主語について補完説明を行っていることが分かる。次は目的語の補語のパターンだ。

3.Mi vidis lin aĉeti videoludon “Kotonoha Amrilato”, kvankam li estas maljunulo.
「年配者にもかかわらず彼が『ことのはアムリラート』というゲームを買っているのを目撃した」

この場合は太線が”lin(彼を)”を説明していることが分かる。
このほかにもまだまだ不定詞については語らなければならないこと(目的語になることとか前置詞とくっつける等)があるのだが、今回は一旦筆を置こうと思う。しかしながら、不定詞を上手く扱えるようになればエスペラント語での表現力は大きく向上する。レイさんを攻略する前に不定詞をまず攻略するといいかもしれない。

*ユリアーモ変換プログラムは夏野すぐる様に使用の許可を頂きました。感謝申し上げます。
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*修正致しました。「interesa→interese」。誤字失礼致しました。

ユリアーモ体験記四日目 Kvara Tago

 

さて、ついに四日目にして単純な疑問文が登場した。凜も「これは何ですか?」という質問に対して「これはXXですか?」という答え方を学んでいく。そのため、プレイヤーも野菜や料理の道具の名前を覚えなければならない。個人的にはエスペラント語を使って料理した経験が浅いので、調理器具の名前を幾分か勉強できたことに満足している。「ボール」でつまづいてしまったのは内緒の話だ。

なんで”Ĉu”を頭につけるのか?実はこの”ĉu”はけっこう奥深い。

まず英語と違いエスペラント語がなぜ”ĉu”を使うようになっているのかは明快だ。何故ならそれはポーランド語の構造を真似ているからと考えられるからだ。というのも、ザメンホフが1887年にエスペラント語の教科書を書いた言語の中でこのような構造を持つ言葉はポーランド語しかない。その上、ポーランド語はザメンホフの故郷ポーランドの言葉だ。この2点からその可能性は大きいと思われる。

さて、下記に主な使い方を対比させた。

■エスペラント語/ユリアーモ
Ĉu vi parolas en Juriamo?
(あなたはユリアーモを話しますか?)

■ポーランド語
Czy mówisz w juliamo?
(あなたはユリアーモを話しますか?)
*ポーランド語では動詞の形で誰が話しているかわかるので”vi”は省略されている

ただしかし、なぜザメンホフがこの重要な部分にポーランド語の構造を取り入れたのかはわからない。多少なりとも、自分の祖国の名残を残したかったのではないのか、と想像してしまう。

ところで、ポーランドを含めたバルト海の沿岸諸国の言葉は、いわば「Ĉu-文化圏」と言えるだろう。すなわち単純な疑問文には頭に何かしら、ĉuに相当する単語を置き、平常文か疑問文の区別をつける構造になっている。例えばウクライナ語は”чі”、エストニア語は”kas”のように(しかしながら、なぜかエスペラント語の改良版「イド」ではKa(d)になってしまっている)。

このように”ĉuは”単純にエスペラント語の疑問文のパーツであるだけでなく、見方によってはザメンホフの郷土性について論じる素材にもなり、またポーランドだけでなくヨーロッパのバルト諸国という地域を論じるためのヒントにもなるのだ。このような意味で”ĉu”はとても奥深い。

プレイヤーの方々にも是非、歴史の重みを込めながらエスペラント語/ユリアーモで質問してほしい。

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ユリアーモ体験記三日目 Tria Tago

「うわーっ、なんじゃこりゃーッ!」と思わず悲鳴をあげた。文字の練習の紙をちゃっちゃとめくっていたら、視界に大量の数字が書かれた紙を流し込まれた。数学が苦手だった著者の身としては目を覆う光景である。

しかしながら、幸いにもこれは私たちの世界でいう「エスペラント語」。覆った目から手を離しゆっくり文字を見てみると馴染みの言葉の数々が視界に入る。さっと見て、「わかる、わかるぞ」とまるでどこかの大佐のような気持ちになる。実は今の所、あんまりユリアーモ文字を見ていない(ごめんなさい)。振仮名をエスペラント語の知識で判別し進めている状態なのだ。しかしながら、文字を除き「本物のエスペラント語とは全然違うよ!」というような表現や言い回しは出てきていない。このため、数詞も全然苦にならず2~3分で数字のクイズを終わらせることができた。

ところで、エスペラント語は言うまでもなく人工言語であるが、その数はどこからやってきたのだろうか。そんな素朴な疑問から下記に一覧表を作ってみた。

左上にエスペラント語を配置し、左縦の行にエスペラント語の数詞を配置した。そして、右に向かって行に適当に選択したヨーロッパの代表的な言葉と申し訳程度のインド要素を並べた。そのそれぞれの縦列はそれぞれの言語でエスペラント語の数詞に対応する単語だ。黄色の文字はエスペラント語の数詞と視覚的に比較して、似ているものの値に色をつけている(あくまで主観によるものであり、学術的に配色しているわけではないことに注意)。

ここで特徴的なのが目で見てみるとほとんどラテン語とよく似ている、ということだ。有り体に言ってしまえば、ラテン語の数詞の前半分だけを取ってきたり(quīnque→quīn→kvin)、発音を多少変えたり(sex→ses)しているようにも見える。9に当たる”novem”も後ろがなくなれば”*nov”となり、かなりエスペラント語に雰囲気が近くなるだろう。数に関して言えば、ロマンス語の数詞がベースとなっていると考えたほうがいいのかもしれない。例えば田中克彦はBlanke Detlevの著書を引用してエスペラント語を構成する言葉の割合をロマンス諸語から75%としている(2)。

Blanke氏の統計を信じれば、エスペラント語の語彙の起源はすなわち大部分がラテン語やその子孫であるフランス語、イタリア語、スペイン語などが属する一群で占められていると考えられる。確かに例えばスペイン語からエスペラント語へのパラレル対訳などを行ったりすると、語彙がほぼ同じであったり、文の構造がとても似たものが出来上がる。それはときどき”自然すぎて”「どこか間違っているのではないのか」、「もっとエスペラント語的に訳すべきだったのか」と当惑するレベルである。

『ことのはアムリラート』のユリアーモの単語学習は遊ぶために必要だが、ゲーム内の学習プログラムは遊びではなく本気のものなので真面目に勉強するとエスペラント語で人生をもっと遊ぶことができるようになるだろう。筆者も真面目にユリアーモ文字の勉強をして『ことのはアムリラート』をちゃんと遊べるように努力したい。

ところで関係ない話だが凜に「念押し、連続、刷り込みだ!」と連呼されると『賭博破戒録カイジ』のカイジの声で「念押しッ…!連続ッ…!!刷り込みだッ…!!!」と頭の中で再生されるのは筆者だけなのだろうか?ザワザワ

引用:
(2)田中克彦『エスペラント 異端の言語』岩波新書,2007,77p. 3行-78p.1行

参考:
一覧表
1.岩崎務『CDエクスプレス ラテン語』白水社,2004

2.田中敏雄,町田和彦『CDエクスプレス ヒンディー語』白水社,2003

3.田中利光『新ギリシャ語入門』大修館書店,1994

ユリアーモ体験記二日目 Dua Tago

“あれ?『パルドーヌ』じゃなくて、『パルドーノン』なの?”というシーンに遭遇した。主人公、凛の何気ない疑問に見えるが、実はこの『パルドーノン』の『〜ン』はエスペラント語にとって大きな役割を果たしている。

このパルドーノンをエスペラント語で書くと”Pardonon”となるが、これは”pardono(許し)”という単語に”-n”がついた形となっている。これでエスペラント語では「ごめんね」という意味になる。

この”-n”は何かと言うと、文法用語では「対格」と呼ばれている。日本語でいうところの「〜を」に近い。エスペラント語では目的語を基本的に語尾に”-n”をつけるかつけないかで見分けているのだ。

例えば次のような文をエスペラント語で考えてみよう。

「私はりんごを食べる」

この文を訳すと下記のように書く人がいるかもしれない。

“Mi manĝas pomo”

これは実に惜しい。ルカのユリアーモの言葉でいうのならば「プレスカゥ トラーフェ(ほとんど正解だけど…)」であろうか。なぜかというと先ほど述べた”-n”が入っていないからだ。ノーマルに”-n”をつけるとしたら、次のようになる:

“Mi manĝas pomon”

これで一体何「を」食べるのか明らかにすることができた。ただし、つける場所を間違えてはいけない。例えばここで”min manĝas pomo”にすると「私をりんごが食べる」と何やらりんごに人間が捕食されている意味となり、ホラーになってしまう。

実際はこの”-n”には対格の他にも意味があるのだけれども、それはここでは言及しない。それが上記で「『〜を』に近い」と書いた理由なのである。

ところで”-n”は重要な存在であるが、ベテランのエスペランティストでもうっかり”-n”を付け忘れてしまうことがある。筆者もわりと頻繁に書き忘れてしまう。
エスペラント語から派生した別の人工言語群の一つにイドという言葉があるのだが、イドではこの語尾の”-n”は普通、使わないので、このようなミスばかりを繰り替えすと「お前はいつからイディストになったのか」と揶揄されるときもないわけではない(筆者の経験から)。

ヨーロッパの言語の多くは「格」と呼ばれる構造を持つ。言って見れば日本語の「てにをは」である。日本語は体言の最後に「てにをは」をつけるが、ドイツ語やロシア語、ザメンホフの故国のポーランド語は単語に「てにをは」をつけるのではなく、単語自体が変化して「てにをは」を表す構造になっている。
かつて筆者は日本エスペラント協会を訪れたウクライナ系スウェーデン人から、この”-n”のアイデアはドイツ語から借用されてきたと聞いたことがある。確かにドイツ語の定冠詞の男性形の対格、伝統的な文法でいうと「4格」は例えば”den”で、”-n”終わりである。

このように『ことのはアムリラート』にのユリアーモの語尾の「ン」は言葉として非常に大きな役割を果たす一方で、ヨーロッパの言語の長い歴史も共有している。

ところで、ゲーム本編の体験記としては初めて内容に触れる形となるけれども、それにしてはサムネイルがサービスシーンのようなところになっているのが読者の関心を引くのではなかろうか。気にしすぎるのはいいが、プレイヤーの皆さんにはそれと同じくらい”-n”にも注意を払っていただきたい。おそらく語尾に「〜ン」をつけるかつけないか、というようなクイズを出題される気がする。

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言葉の適切なシンプルさとは? Kio estas taŭga simpleco de lingvo?

エスペラント語の売りの一つは「簡単さ」である。規則的なアクセント、規則的な造語法、規則的な動詞の変化など、エスペラント語が簡単だと主張するポイントは複数ある。そしてイドを含め、多くの改造エスペラント語が人工言語の歴史上、「生産」されてきたということが、エスペラント語の簡単さを多かれ少なかれ裏付けしているのではないか、と考えるのは早計だろうか?

ところで今日、テトゥン語で初めて作文を試みた。動詞には時制や人称を表すための変化がなく、アルファベットで書かれている。挨拶や感謝の言葉はポルトガル語からの借用語で占められており、覚えるのに時間はかからなかった。代名詞には主語や目的語の区別がなく、とてもシンプルだ。1時間程度でそこそこ長い文章を書けた(ように思えるだけで、ティモール人から見れば実際は変な文なのかもしれない)。

もちろんテトゥン語のような自然言語と違い、エスペラント語の構造が比較的簡単と言われるのはエスペラント語が自然の産物ではなく、人の手によるものだからだ。ただ、作られたからといって、適度な簡単さが得られるわけではない。

例えば他の言葉はどうだろうか。例えばトキポナとイスクイルが頭に浮かぶ(ここで誤解しないで頂きたいのは、トキポナやイスクイルがコミュニケーションに不向きなツール、と断じているわけではないことだ。というのも、これらの言葉が作られた目的は意思疎通のためではなく、人間の認知能力を測るための哲学的挑戦のために作られているからだ)。

例えばトキポナは「私たちの周りにあることを120の単語で理解するための哲学的な挑戦」であるために、とてもシンプルな文法を持ち、かつ単語の意味が多義語的である。例えば”suli”であれば「大きい」でもあるし「偉大な」でもあるし、「高い」という意味でもあり、”telo suli”のように「水(telo)」と組み合わせて「海」という意味になる。また、動物個々を表す単語はなく、動物は”soweli”だけでそれにいわゆる形容詞や名刺をつけて区別をつけていく。だから”soweli suli”といったら「大きい犬」かもしれないし「ライオン」のことを言っているかもしれない。従って、トキポナ同士で話す場合、しばしばお互いの言葉が自分が理解したと思っているかどうか”理解の調節”が必要となるだろう。

逆に世の中の言葉の難しさをつめこんだかのような人工言語といえばイスクイル語だろう。執筆者はこの言葉に明るくないので、作者ジョン・クイハダ(John Quijada)の文法書の例文を紹介する(A Grammar of the Ithkuil Language, p.2):

Tram-mļöi hhâsmařpțôx
(それどころかこの起伏の激しい山があるところで見えなくなることが分かるかもしれないと思う)

この例文はいくつかのパーツから成り立っている:
(1)Tr(a)-=反証
(2)m-mļ-=分かるかもしれない、明らかになるかもしれない
(3)-öi=ある時点で、ある点で
(4)hh-=と思う、という感覚がある
(5)-âsm(a)-=丘
(6)-řpț-=くっついた語幹の事象が複数の非同一的な要素から成り立つ複合体の一つに包含され、かつその総体が徐々に減退する、消えていくことを表す
(7)-ôx=くっつたものがとても大きい形をなしており、かつ概念的に異なった姿になることをあらわす

文法書に従えば上記の意味となるようである。難しすぎる。主観で申し訳ないが、「ことのはアムリラート」で採用されたのがエスペラントでなく、17母音と65子音の鬼畜人工言語のイスクイルだったなら、恐らく主人公の凛はコミュニケーションが取れず、路上で餓死していたかもしれない。

いずれにしても、ここで分かるのは言葉というのは簡単すぎても難しすぎてもコミュニケーションが難しくなる、ということだろう。何が一体、人間にとって適切な簡単さであるのか?エスペラント語とテトゥン語の学習はその示唆に富む。

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Oni certigas, ke Esperanto estas facila: regula akĉento, regula vortokonstruado, regula ŝanĝo de verbo, k.t.p: estas pluraj punktoj por aserti, ke ĝi estas tre facila.
Kaj ĉu estas tre frue juĝi, ĉu kiam multo de esperanto-bazaj esperantidoj inklusive Idon ekzistas jen historio de arte-faritaj lingvo kaj estis “elfarigitaj”, tiam ja apogas verŝajne pli-malpli facilecon de Esperanto?

Parenteze mi spertis hodiaŭ unufoje skribi en la tetuna, la lingvo de Orienta Timoro. Ĝiaj verboj ne havas ŝajne ŝanĝon kaj ĝi estas skribata per latina alfabeto. Salutvortoj kaj dankvortoj estas plenaj je pruntvortoj de la portugala kaj pro tio, ke mi kutimiĝas kun tielaj lingvoj ne daŭris multe da tempo por memori la bazan parton de la lingvon. Krome, ĝiaj pronomoj ne havas distingo inter subjekto kaj objekto: tio portis al mi impreson por tio, ke la tetuna estas tre simpla. En ĉ. unu horo mi povis finskribi longetan tekston (kvankam al mi ŝajnas tiela sed fakte al veraj timoranoj ŝajnas, ke la teksto estas tute stranga verŝajne).


(Lernolibro de la tetuna en japana)

Naturale ne kiel la tetuna, la kialo, kial oni diras, ke Esperanto estas relative facila kaŭzas de tio, ke ĝi ne estas naturaĵom sed inventita lingvo per manoj de la homo. tamen, ĉiuj faritoj nepre havas facilecon ĉiam.

Do kiel estas aliaj arte-faritaj lingvoj? En mia kapo aperas ekz. Tokipona kaj Ikthui.
(*Ne miskomprenu, ke kiam mi ĉi-tie mencias ilin, tiam ne apogas, ke mi ne insistas, ke ili estas npre taŭgaj por interkomunikado, ĉar mi komprenas, ke ili estis dezajnitaj ne por komunikado, sed mezuri homan percepton kiel filozofa provo.)

Tokipona havas ekz. simplan gramatikon kaj multsignifajn vortojn por ke “filozofa provo por kompreni nian vivo per 120 da vortoj”. “Suli” estas ekz. “granda” kaj “alta” kaj “nobla”, kaj oni uzas ĝin en vorto-kombinado kiel “telo suli”, kies signifo estas “maro”. Pluse, Tokipona ne havas konkretajn nomojn por iaj animaloj, sed “soweli”, kaj oni povas distingi, kio “soweli”-oj estas pli konkrete, kiun vi volas mencii nur per vorto-kombinado: per aldono de adjektivoj kaj aliaj nomoj. Sekve se oni diras “soweli suli”, tio signifas verŝajne “granda hundo” aŭ alie “leono”. Pro tio mi kredas, ke oni bezonas eble fojfoje kontroladon de interkompreno unu la alian, kiam oni interne parolas nur en Tokipona.

Male de Tokipona ekzistas lingvo, kies nomo estas Ithkuil, kiu portas al mi impreson por tio, ke malfacileco de ĉiuj lingvoj en la mondo estas eble ja kunmetata. Dirande honeste mi ne scias multe la malfacilaĵon. Pro tio mi prezentas ekzamplon de “A Grammar of Ithkuil Language” de John Quijada, la kreinto de la lingvo(“A Grammar of the Ithkuil Language”, p.2):

Tram-mļöi hhâsmařpțôx
(“Kontraŭe ke laŭ mia penso oni trovas, ke tiu malebena monto foriras en unu loko”)

La ekzamplo konsistas el plure da aldonaĵoj
(1)Tr(a)-=kontraŭe
(2)m-mļ-=oni trovas, troviĝas
(3)-öi=en unu loko, en unu punkto, ie
(4)hh-=mi opinas, pensas, laŭ mia penso kun signofo “verŝajne”
(5)-âsm(a)-=monteto
(6)-řpț-=radiko, kiu estas aldonata tiu aldonaĵo havas signifon por tio, ke ĝi estas unu aĵo, kies tuto konsistas el malsamaj elementoj kaj ĝi apartenas al unu el ili, kaj la tuto malaperas iom post iom
(7)-ôx=radiko, kiu estas aldonata tiu aldonaĵo havas signifon por tio, ke la aldonita havas grandan figuron kaj ideale fariĝas malsama
(monteto”hill”→monto”mountain”)

Laŭ klarigo de la gramatika libro la supra signifas tiele. Estas tro malfacile. Kun pardonpeto mi opinas, ke se en “Kotonoha Amrilato”, la komputila ludo, en kiu aperas Espranto ne estas uzata Esperanton, sed Ithkuil-on, la infernan lingvon kun 17 vokaloj kaj 65 konsonantoj, Rin, la ĉefkaraktero de la ludo eble mortus senmanĝe sur strato, ĉar ŝi ne povas verŝajne komuniki kun aliaj.


(Kotonoha Amrilato, la komputila ludo)

Finfine oni trovas ĉi-tie, ke lingvo estas ne praktika se ĝi estas ĉu tro facila, ĉu tro malfacila. Sekve, kia facileco estas taŭga por interhoma komprenado;komunikado? Lernado de Esperanto kaj la tetuna helpas vin eble.