欧州文芸フェス:理解の英語 Eŭropo Belarta Festo: porkomprena angla

「英語を控えたらもっと私たちは国際的になれるのかもしれない」

ヨーロッパ文芸フェスティバルのオープニングセレモニーで欧州連合代表部に日本とチェコ、エストニア、イタリアなどヨーロッパ各地から集まった作家や協力者たちを見て私はこう思った。

ところで、文学とは何か?これは一概に言えることは難しい。何故なら人によって文学感が違うからだ。例えば、冗談かもしれないが、イタリアのアルバレシュ人の共同体出身のカルミネ・アバーテ(Carmine Abate)さんは冗談好きなイタリア人らしい洒落た言い草で「文学とは愛について話している」と講演で喝破していた。私は文学者ではないので恐縮だが、この催事を通して文学というものは「作者と読者の垣根を越えて異なる認識や経験、空間をつなぎあわせる試み」ではないだろうかと考えた。

しかしながら、その目的を達成させる場合、非英文学に用いられる英語は国際的な、賞賛すべき道具から人と人の間の精神活動を阻害するための障害物に凋落してしまうのではないだろうか。会場全体ではともかく、ここでの「社内公用語」は講演ごとにばらばらだ。私が見た作家たちの講演の言語はほとんど日本語か作家の出身国の言語を用いており、むしろ英語で話すことすら場違いなことであるかのように感じられた(尤も国籍がバラバラの聴衆に呼びかける際やその人たちに説明が必要な場合は英語が使われたのはやむを得ないことだったと言えるけれども)。例えばアバーテさんの普段の会話はイタリア語であったが、ふるさとの話になると時折、自分の母語であるアルバレシュ語で「心の言葉」の重要性を訴えた。

また、仮に作家たちが自分の作品を英語で朗読していたらどうなっていたかと想像する。もしビアンカ・ペロヴァー(Bianca Bellová)さんが自分の作品”Jezero”を英語で読み上げたとしたらどうなっていただろうかと。恐らくは作者ペロヴァーさんのステンレス製ナイフのようなひんやりとした声の感覚は聴衆には伝わらなかったのではなかろうか。そしてそれは彼女が英語ではなく、自分が作品を書いたチェコ語で産み落としたものだからに違いない。そのようにしてチェコ語を通し、私たちはより一層、作者の内面世界と、やや暴力的にではあるが対面させられることが可能になる。その”Jezero”の世界はそれ自身を構築しているチェコ語からでしかアクセスできない場所だ。そうして、私たちは彼女たちの文学をより深く知ることができるようになるのである。

「国際理解のための英語! 」

このような文句が世間には踊っている。しかしながら、以上の話からすれば、英語は作者の原世界を理解するという作業において必要どころかむしろ邪魔である。そう考えると、英文学以外の文学の作品を内面的に理解するためには、その作品の原語以外では真に理解はできないのでは、という話になる。これには勿論、エスペラントも含まれる。

しかしながら、エスペラントの場合は英語とは言語の質が違う。どちらが作家の母語の表現をより柔軟に受け止められるかを考えたとき、英語のそれはエスペラントのそれにはるかに及ばない。それは人工言語故の特性だと思う。英語をしゃべるとき、英語で表現するときはアングロ・サクソンの歴史の中で形成されてきた表現や語法を使わなければならない。もちろん、エスペラントにも一定に形成されてきたフォームが存在する。ただし、エスペラントの場合、表現や文の組み立て方は多くの場合、使用者の第一言語のルールに従うことになる。それはすなわち、100%ではないものの作家の母語で作られた作品のイメージをより強く表現出来ることを意味する。作者の直接の精神世界ではないにしろ、よりしなやかに作者の母語感覚に迫ることができる。

このイベントでは優秀な翻訳者陣のガイドにより、作者たちの世界に日本語という土に塗れた足で踏み入れることができた。それは大変素晴らしい経験だった。何故なら日本語で作者の言語世界に入って行けたのだから!

会場の外に出て、夜の住宅街を歩いていく。駅前に出て、東京の喧騒の中に身を置く。電車の中では英会話の広告が私たち乗客にしょっちゅう「英語が話せないとダメですよ」と暗号を送ってくる。──はて、なぜ私たちは英語を勉強しないといけなかったのだろうか?

日本では日々、英語の重要性が強調されすぎている。このことを考えると私たちは国際理解、異文化理解、相互理解のための英語の影で、本当は目にしなければならない、理解しなければならない大切なものに気づかずにいるのではないだろうか、という疑念に囚われる。英語を控えたらもっと私たちは国際的になれるのかもしれない。英語に頼るのをやめればもっと文学がおもしろくなるのかもしれない。それを感覚的に知るためにはエスペラントも重要な要素となりうるのではないだろうか。

携帯のアプリに通知が届いた。何かメッセージが来たようだ。アメリカ人の友達からだった。
「Saluton!」と。

(S)

ユリアーモ体験記八日目 Oka Tago


『ことのはアムリラート』と「語学」をかける。その心は何だろう?

再度容赦ないユリアーモの授業が開始された。再び数字や基本的な挨拶などの予習を行い、一般的な会話を想定した定型文句の勉強も終えた。

実は一週目のころは見てもユリアーモの文面を見てもなぜそういうのかが理解できず、「何かあるんだろうな」程度の認識しかできなかったところがあった。そして、二週目にしてそのような疑問が氷解したところがあった。しかもそれはエスペラント語/ユリアーモにある程度の知識がないとわからない点ではないかと思うので、まずこれをプレイしながら紹介したい。次に、一週目に凜がおもしろいところに着目していたので、通りかかった縁でこちらもクローズアップしたい。

レイがなぜ冠詞をつけていたのか

まず”Administracio por Vizitantoj” すなわち、日本語では『ヴィジタント管理局』とでも言えばいいのだろうか?そこにお勤めしているレイさんのセリフ。恐らく一週目では大抵は何を言っているか本当に分からず、「??」な状態になるかと思う。個人的に着目していただきたいのは、ここで”La fama fraŭlino”とあるように凜のことを定冠詞付きで「あの有名な女の子」と呼んでいることだ。

定冠詞は往々にして、くっついた言葉を限定させる機能がある。劇中では確か「あの」というように訳されていたと思う。そして上でも「あの」を使って訳したが実は冠詞ワールドは奥が深く、どんな言語であろうとも「あの」と直訳で覚えることはオススメしない、というのが個人の考えである。冠詞はかなり奥深い。例えばドイツ語学者の関口在男という人は冠詞についての本を三巻編成で出版しており、冠詞の研究だけなのに総ページ数は二千ページを超えてしまう。それぐらいこの要素は複雑だと推察できよう。逆にこの定冠詞の深さを少しでも知ることにより「あの」という平坦な理解だけはない、奥深いレイさんの言葉の意味を知ることができるようになる。

冠詞抜きはストーリーを崩壊させる?

例えばここでもし冠詞がないとどういうことになるか想像できるだろうか?まず第一にここで重要なのが、凜を説明するために”la”が必要となる、ということだ。いわゆる「同格表現」というもので、「次に来る名詞を説明しているんですよ。次の名詞を確認してね!」というマークとして冠詞が使われるパターンである。例えばここでは「あの凛という有名な女の子」という文でいう「あの〜という」に相当する機能を果たしている。従って、ここでもし冠詞がなかったら、「この世界には凛という名前の名の知られた少女が複数いて、その中の一人かどうかをレイさんが確認した」というような形になるかもしれない。細かく言えば、凛という名詞が例えば「犬」や「車」のような一般名詞になってしまったように感じるかもしれない。そのため、文法的に意味がストーリーにそぐわなくなり意味がおかしくなるだろう。

第二に”la”の限定性について。冠詞がない名詞は多かれ少なかれ、情報が今まで出たことがないと考えられる可能性が出てくる。あるいは世の中にあるすべての中から何でもいいからそのうちの一つ、という無作為さがあると考えられる。従って、そうではないということはこの時点ですでに、レイが凜について心の中で”fama”かつ限定された情報になるまで聞かされている、ということが暗示されている。

さて、これは一体どういうことかというと…というのはストーリーを進めればよく分かるようになるので、ここでは敢えて言わない。愛の力(?)は恐ろしいものだ。いずれにせよ、ここで”la”が有る無しはこのシーンの深みとストーリーの時間的な長さに大きな影響を与えていると言える。

「大地の果実」のおはなし

ところで、語学で自分の知っている言葉の概念とまったく違う表現に遭遇すると思わず「えっ!」と驚いてしまうことがある。凜の場合はどうやら「ジャガイモ(terpomo)」だったようだ。

この単語を直訳すると「大地のりんご」となる。恐らくフランス語を勉強したことがある人はこの組み合わせを見て「さてはフランス語の”pomme de terre”から借用したな」と考えることだろう。フランス語も「大地のりんご」という意味の単語を使うからだ。そして、ザメンホフが書いた教科書の言葉の一つがフランス語であったことから、その推測は間違ってはいないだろうと考える。

ただ、ここでこの「大地のりんご」とは日本語でいう、すなわち「ジャガイモ」のことである、という理解を示すのはフランス語だけではない、ということはご記憶されたい。実は筆者が知っている範囲でいうと、現在の西欧には南アメリカのナワトル語由来の”potato”のように呼ぶ表現もあれば、「大地のりんご」パターンもあるし、第三には「大地の梨」のように呼ぶパターンもある第四にはドイツ語の”Kartoffel”みたいな変形パターンもある(こっちはキノコと関係する:キノコ系)。例えば二番目の表現に関して言えばフランス語だけでなく、オランダ語やドイツ語の方言でも「大地のりんご」という単語を使うことがある、ということは言語の歴史としても教養としても重要だと思う。

筆者はラテン語学者ではないので正確には言えないが、そもそもWikipediaを確認すると、ラテン語でも複数の呼び方が見られる。例えば”pomum”や”patata(新ラテン語?)”、それから”pomum terrestre”である。後者は形を見ればわかるように「大地のりんご」系である。

実はジャガイモがヨーロッパに現れるのは16~17世紀(1)なので、“potato”という単語は比較的新しい部類に入るのではないかと思う。例えばヨーロッパの中でも断トツの古さを誇るアイスランド語(千年くらい言葉の形がほぼ変わっていない)でもWikipediaによれば「大地のりんご( jarðepli)」、ないしはドイツ語の仲間の”kartafla”を使っている。従って、歴史的に古いのは恐らく「大地のりんご系」と「きのこ系」なのではないかと推測する。

りんごは「くだもの」

実は重要な点として、そもそもラテン語の”pomum”はりんごではなく「くだもの」という意味だったことが挙げられる。それが時が経つにつれ、「りんご」の意味に限定されていったと考えられる。一方で例えばヨーロッパとイスラム圏の狭間に位置するアルバニア語では、”pomum”に連なる単語”pemë”を「木」という意味に使っているようだ。このことから欧州太古の「くだもの」は文化圏ごと、言語ごとに異なった変化を遂げていったと言える。

冤罪のはじまり

それでは「りんご」そのものはラテン語では何といったのかというと古代ローマ世界では”malum”と言っていたようだ。この単語の頭の”mal-“はピンと来る方もいると思うが、ユリアーモ/エスペラント語の”mal-“とも関係している。
実はヨーロッパの文化史においてこのくだものは最上級の冤罪をなすりつけられていると言えるだろう。聖書の有名な逸話で「アダムとイヴが禁断の果実を食べる」というシーンがあるのだが、挿絵や絵画では禁断の果実をりんごとして描写していることがある。実はラテン語では少なくとも「りんごを食べた」とは書かれていない。例えば

de ligno autem scientiae boni et mali (然して善悪の知識の木から)”

というように書かれているが、りんごのことではない。誰が言出屁かはわからないが、この”mali(悪の)”という単語を「りんご」が変化した「りんごの」という形の単語と勘違いし、誤訳したことから欧州の文化に「禁断の果実=りんご」という認識が広まったとされる。まさに冤罪である。

りんごは「めろん」?

ちなみに文献不明のWiktionaryにて語られている話をまとめると、”malum”をさらに遡ると古代のギリシャ語の”μῆλον(くだもの)”と関係があるとされる。どうもこれはメロンの語源とも関係しているだけでなく、この単語が例えばヒッタイト語の”mahla(ぶどう)”とも関連していることから、どうやら欧州の「りんご」はギリシャ語という言葉が成立する前の古代の地中海世界の起源ではないかと考えられるらしい。とても壮大な話になる。できたら古典ギリシャ語語源辞典が欲しいところだ。

語学は禁断の果実?

『ことのはアムリラート』と「語学」をかけて、その心はなにかと問われれば「禁断の果実」かもしれない。

Twitter上で確認できるが、『ことのはアムリラート』をプレイしたことによりユリアーモからエスペラント語自体にも興味を持っていただいた方もちらほらと見られる。人によってはガチでエスペラント語を勉強した上でユリアーモで二次小説を書いてしまうつわものもいらっしゃるようだ。上記でお話を書いてきたように本当に好きな人はずるずるとその世界にはまり込んでしまう。また、同時に熱心なプレーヤーの方がルカを籠絡したいと思うのであれば、否が応でもユリアーモを学ばないといけない。両方ともある意味ではかじったら最後、とことんやらないといけない禁断の果実ルートなのである。

聖書で禁断の実を食べたアダムとイヴは追放という楽しい終わり方を迎えなかった。筆者も一週目ではネット上で語られるいわゆる「ブランコED」で、非常に心が晴れない終わり方を迎えた。そのため、二週目ではより幸せなエンディングを迎えられたらいいと願ってやまない。そのため、現在は再度レイさんからもらった不定詞の勉強を黙々とこなしている。

というか、レイさんルートはあるのだろうか?
黙々。

画像の著作権はSukera Sparo様に帰属致します。

(1)伊藤章治『ジャガイモの世界史』中公新書(2008)

Esperanto-muziko エスペラントの音楽

そもそもの問題になるが、エスペラント語はそれ独自の文化を持っていいのか、という疑問が筆者にはある。というのも、あくまで他の文化を理解するためだけのツールが独自の、他から離れた独自の文化を形成する、ということが矛盾しているように思えてしょうがないからだ。

とはいえ、エスペラント語のどこの国や民族にも属さない無籍国感、異質感、人工物感の魅力に抗えないアーティストはやはり存在している。例えば初音ミクのボーカルの歌詞の言葉として採用されることがあるのはぼちぼち知られていることだと思う。私は音楽に詳しくないので僭越だが、少し知っているエスペラント語のミュージシャンについて触れてみようと思う。

ロボットであるミクに人工言語であるエスペラント語で歌わせるというのは想像しやすいことだと思う。だが、実際に生身の人間がどれだけエスペラント語で歌を歌ったりしているのか。真面目にPVを作っているアマチュアではない人もいる。いや、この際アマやプロは関係なかろう。エスペラント音楽には「やったか、やらないか」しかないのではなかろうか。

例えばスウェーデンではこういう人がいる:Martin Wiese。彼はPersoneというエスペラント・ロックバンドでも活躍する建築家兼音楽家でもある。1986年からずっとPersoneで音楽活動に関わっている。例えば次に紹介するのがPersone。その次が彼のソロプロジェクトである。

また、エスペラントのレゲエ、といえば言及せざるを得ないのが、ドイツのJonny Mである。彼はどちらかといえばごく新しい方のアーティストに分類されるが、エスペラント語のヒットソングメイカーとしての実績を着実に積み上げている。

どのような実績の人かはよく分からないのだが、セネガルのラッパーの人もいるようだ。

さて、ここまで緩やかな音楽が多いかったように思う。ポップ、レゲエ、ヒップホップのようなオーガニックな音楽が多い、と思ったら大間違い。ブラジルにはエスペラント語を使ったヘビーメタルバンドもいる。BaRok’ Projektoというバンドだ。こういうのをメロディアスメタルというのだろうかそれともややドラマチックなのでシンフォニックメタルと呼んでいいのだろうか?その境界は筆者にはよくわからない。

個人的にははやくエスペラント語のブラックメタルが出てきてくれないかとも思うのだが、まだ時代が早すぎるのかもしれない。しかし、すごいこととしてはここまで紹介されたアーティスト(ミクを除き)全て違う国の人なのだ。文化も民族も言語も違う人たちが一つの言葉だけを使って、才能を発揮させているのはすごいことだと思う。さて、お気に入りの音楽は見つかりましたか?

Duolinguoのエスペラント講座に100万人 Miliono por Esperanto en Duolinguo


(Duolinguoの英語版エスペラント語講座のトップページ)

エスペラント語はソーシャルネットワーク全盛の時代になり、返り咲きを始めている。

無料の語学学習アプリDuolinguoの英語版のエスペラント語講座に登録した人が100万に到達した。これだけの人数がエスペラント語を学んでいる、あるいはエスペラント語に触れようとしているという姿勢が視覚化されたのは初めてである。エスペラント語をよく使う人にとって、Duolinguoは参加者数がわかるということで、エスペラント語がどれだけ学ばれているかを計測するためのトレードマークになっている。

一般にエスペラント語というのはあまり知られていない。知っている人にあっても「エスペラント語は100年くらい前に出てきて、世界の人が同じ言葉をしゃべれればいいという計画だったと聞いたんだけど、結局成功しなかったんでしょ?(浅草にて知人のドイツ人から)」、「エスペラント語のことは知っているけれど、まだ生き残っているのかい?(モスクワからの夜行列車のコンパートメントで青年からの質問)」など、どちらかといえば「途絶えた」「失敗した」という認識を持っている。日本ではたまにおじいさんがエスペラントの旗に引き寄せられてやってきて「昔は勉強していたんだけどねェ…」と郷愁の心をのぞかせるぐらいである。

ネット上では大規模なネットワークがすでに形成されている。Duolingoにもフォーラムがあるし、Facebookでは毎日のように誰かが「サルートン」と言って質問やニュースを気軽に投稿している。ツイッターでもエスペラント語でツイートすれば世界の誰かが反応してくれる。そこでは例えば日本ではテレビで放映されているが、本当なのかどうかよくわからない出来事についても、現地の人からエスペラント語で聞くこともできる。このように現地情報収集にエスペラント語は非常に役立つ。旅行についてのアドバイスを旅行先の国の人から直接聞くこともできるのだ(運が良ければ泊めてもらうこともできるかもしれない)。

今はポーランドのアダム・ミツキェービチ大学では媒介言語学という名前でエスペラント語を遊びではなく、学術的に分析・研究する学部もある(エスペラント語で受験できるのは面白いと思う)。このような便利で簡単で、学術的な言葉を無料で学べるというのはすごい時代になったと思う。

あなたもその一員にならないか?

言葉の適切なシンプルさとは? Kio estas taŭga simpleco de lingvo?

エスペラント語の売りの一つは「簡単さ」である。規則的なアクセント、規則的な造語法、規則的な動詞の変化など、エスペラント語が簡単だと主張するポイントは複数ある。そしてイドを含め、多くの改造エスペラント語が人工言語の歴史上、「生産」されてきたということが、エスペラント語の簡単さを多かれ少なかれ裏付けしているのではないか、と考えるのは早計だろうか?

ところで今日、テトゥン語で初めて作文を試みた。動詞には時制や人称を表すための変化がなく、アルファベットで書かれている。挨拶や感謝の言葉はポルトガル語からの借用語で占められており、覚えるのに時間はかからなかった。代名詞には主語や目的語の区別がなく、とてもシンプルだ。1時間程度でそこそこ長い文章を書けた(ように思えるだけで、ティモール人から見れば実際は変な文なのかもしれない)。

もちろんテトゥン語のような自然言語と違い、エスペラント語の構造が比較的簡単と言われるのはエスペラント語が自然の産物ではなく、人の手によるものだからだ。ただ、作られたからといって、適度な簡単さが得られるわけではない。

例えば他の言葉はどうだろうか。例えばトキポナとイスクイルが頭に浮かぶ(ここで誤解しないで頂きたいのは、トキポナやイスクイルがコミュニケーションに不向きなツール、と断じているわけではないことだ。というのも、これらの言葉が作られた目的は意思疎通のためではなく、人間の認知能力を測るための哲学的挑戦のために作られているからだ)。

例えばトキポナは「私たちの周りにあることを120の単語で理解するための哲学的な挑戦」であるために、とてもシンプルな文法を持ち、かつ単語の意味が多義語的である。例えば”suli”であれば「大きい」でもあるし「偉大な」でもあるし、「高い」という意味でもあり、”telo suli”のように「水(telo)」と組み合わせて「海」という意味になる。また、動物個々を表す単語はなく、動物は”soweli”だけでそれにいわゆる形容詞や名刺をつけて区別をつけていく。だから”soweli suli”といったら「大きい犬」かもしれないし「ライオン」のことを言っているかもしれない。従って、トキポナ同士で話す場合、しばしばお互いの言葉が自分が理解したと思っているかどうか”理解の調節”が必要となるだろう。

逆に世の中の言葉の難しさをつめこんだかのような人工言語といえばイスクイル語だろう。執筆者はこの言葉に明るくないので、作者ジョン・クイハダ(John Quijada)の文法書の例文を紹介する(A Grammar of the Ithkuil Language, p.2):

Tram-mļöi hhâsmařpțôx
(それどころかこの起伏の激しい山があるところで見えなくなることが分かるかもしれないと思う)

この例文はいくつかのパーツから成り立っている:
(1)Tr(a)-=反証
(2)m-mļ-=分かるかもしれない、明らかになるかもしれない
(3)-öi=ある時点で、ある点で
(4)hh-=と思う、という感覚がある
(5)-âsm(a)-=丘
(6)-řpț-=くっついた語幹の事象が複数の非同一的な要素から成り立つ複合体の一つに包含され、かつその総体が徐々に減退する、消えていくことを表す
(7)-ôx=くっつたものがとても大きい形をなしており、かつ概念的に異なった姿になることをあらわす

文法書に従えば上記の意味となるようである。難しすぎる。主観で申し訳ないが、「ことのはアムリラート」で採用されたのがエスペラントでなく、17母音と65子音の鬼畜人工言語のイスクイルだったなら、恐らく主人公の凛はコミュニケーションが取れず、路上で餓死していたかもしれない。

いずれにしても、ここで分かるのは言葉というのは簡単すぎても難しすぎてもコミュニケーションが難しくなる、ということだろう。何が一体、人間にとって適切な簡単さであるのか?エスペラント語とテトゥン語の学習はその示唆に富む。

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Oni certigas, ke Esperanto estas facila: regula akĉento, regula vortokonstruado, regula ŝanĝo de verbo, k.t.p: estas pluraj punktoj por aserti, ke ĝi estas tre facila.
Kaj ĉu estas tre frue juĝi, ĉu kiam multo de esperanto-bazaj esperantidoj inklusive Idon ekzistas jen historio de arte-faritaj lingvo kaj estis “elfarigitaj”, tiam ja apogas verŝajne pli-malpli facilecon de Esperanto?

Parenteze mi spertis hodiaŭ unufoje skribi en la tetuna, la lingvo de Orienta Timoro. Ĝiaj verboj ne havas ŝajne ŝanĝon kaj ĝi estas skribata per latina alfabeto. Salutvortoj kaj dankvortoj estas plenaj je pruntvortoj de la portugala kaj pro tio, ke mi kutimiĝas kun tielaj lingvoj ne daŭris multe da tempo por memori la bazan parton de la lingvon. Krome, ĝiaj pronomoj ne havas distingo inter subjekto kaj objekto: tio portis al mi impreson por tio, ke la tetuna estas tre simpla. En ĉ. unu horo mi povis finskribi longetan tekston (kvankam al mi ŝajnas tiela sed fakte al veraj timoranoj ŝajnas, ke la teksto estas tute stranga verŝajne).


(Lernolibro de la tetuna en japana)

Naturale ne kiel la tetuna, la kialo, kial oni diras, ke Esperanto estas relative facila kaŭzas de tio, ke ĝi ne estas naturaĵom sed inventita lingvo per manoj de la homo. tamen, ĉiuj faritoj nepre havas facilecon ĉiam.

Do kiel estas aliaj arte-faritaj lingvoj? En mia kapo aperas ekz. Tokipona kaj Ikthui.
(*Ne miskomprenu, ke kiam mi ĉi-tie mencias ilin, tiam ne apogas, ke mi ne insistas, ke ili estas npre taŭgaj por interkomunikado, ĉar mi komprenas, ke ili estis dezajnitaj ne por komunikado, sed mezuri homan percepton kiel filozofa provo.)

Tokipona havas ekz. simplan gramatikon kaj multsignifajn vortojn por ke “filozofa provo por kompreni nian vivo per 120 da vortoj”. “Suli” estas ekz. “granda” kaj “alta” kaj “nobla”, kaj oni uzas ĝin en vorto-kombinado kiel “telo suli”, kies signifo estas “maro”. Pluse, Tokipona ne havas konkretajn nomojn por iaj animaloj, sed “soweli”, kaj oni povas distingi, kio “soweli”-oj estas pli konkrete, kiun vi volas mencii nur per vorto-kombinado: per aldono de adjektivoj kaj aliaj nomoj. Sekve se oni diras “soweli suli”, tio signifas verŝajne “granda hundo” aŭ alie “leono”. Pro tio mi kredas, ke oni bezonas eble fojfoje kontroladon de interkompreno unu la alian, kiam oni interne parolas nur en Tokipona.

Male de Tokipona ekzistas lingvo, kies nomo estas Ithkuil, kiu portas al mi impreson por tio, ke malfacileco de ĉiuj lingvoj en la mondo estas eble ja kunmetata. Dirande honeste mi ne scias multe la malfacilaĵon. Pro tio mi prezentas ekzamplon de “A Grammar of Ithkuil Language” de John Quijada, la kreinto de la lingvo(“A Grammar of the Ithkuil Language”, p.2):

Tram-mļöi hhâsmařpțôx
(“Kontraŭe ke laŭ mia penso oni trovas, ke tiu malebena monto foriras en unu loko”)

La ekzamplo konsistas el plure da aldonaĵoj
(1)Tr(a)-=kontraŭe
(2)m-mļ-=oni trovas, troviĝas
(3)-öi=en unu loko, en unu punkto, ie
(4)hh-=mi opinas, pensas, laŭ mia penso kun signofo “verŝajne”
(5)-âsm(a)-=monteto
(6)-řpț-=radiko, kiu estas aldonata tiu aldonaĵo havas signifon por tio, ke ĝi estas unu aĵo, kies tuto konsistas el malsamaj elementoj kaj ĝi apartenas al unu el ili, kaj la tuto malaperas iom post iom
(7)-ôx=radiko, kiu estas aldonata tiu aldonaĵo havas signifon por tio, ke la aldonita havas grandan figuron kaj ideale fariĝas malsama
(monteto”hill”→monto”mountain”)

Laŭ klarigo de la gramatika libro la supra signifas tiele. Estas tro malfacile. Kun pardonpeto mi opinas, ke se en “Kotonoha Amrilato”, la komputila ludo, en kiu aperas Espranto ne estas uzata Esperanton, sed Ithkuil-on, la infernan lingvon kun 17 vokaloj kaj 65 konsonantoj, Rin, la ĉefkaraktero de la ludo eble mortus senmanĝe sur strato, ĉar ŝi ne povas verŝajne komuniki kun aliaj.


(Kotonoha Amrilato, la komputila ludo)

Finfine oni trovas ĉi-tie, ke lingvo estas ne praktika se ĝi estas ĉu tro facila, ĉu tro malfacila. Sekve, kia facileco estas taŭga por interhoma komprenado;komunikado? Lernado de Esperanto kaj la tetuna helpas vin eble.