ユリアーモ体験記二日目 Dua Tago

“あれ?『パルドーヌ』じゃなくて、『パルドーノン』なの?”というシーンに遭遇した。主人公、凛の何気ない疑問に見えるが、実はこの『パルドーノン』の『〜ン』はエスペラント語にとって大きな役割を果たしている。

このパルドーノンをエスペラント語で書くと”Pardonon”となるが、これは”pardono(許し)”という単語に”-n”がついた形となっている。これでエスペラント語では「ごめんね」という意味になる。

この”-n”は何かと言うと、文法用語では「対格」と呼ばれている。日本語でいうところの「〜を」に近い。エスペラント語では目的語を基本的に語尾に”-n”をつけるかつけないかで見分けているのだ。

例えば次のような文をエスペラント語で考えてみよう。

「私はりんごを食べる」

この文を訳すと下記のように書く人がいるかもしれない。

“Mi manĝas pomo”

これは実に惜しい。ルカのユリアーモの言葉でいうのならば「プレスカゥ トラーフェ(ほとんど正解だけど…)」であろうか。なぜかというと先ほど述べた”-n”が入っていないからだ。ノーマルに”-n”をつけるとしたら、次のようになる:

“Mi manĝas pomon”

これで一体何「を」食べるのか明らかにすることができた。ただし、つける場所を間違えてはいけない。例えばここで”min manĝas pomo”にすると「私をりんごが食べる」と何やらりんごに人間が捕食されている意味となり、ホラーになってしまう。

実際はこの”-n”には対格の他にも意味があるのだけれども、それはここでは言及しない。それが上記で「『〜を』に近い」と書いた理由なのである。

ところで”-n”は重要な存在であるが、ベテランのエスペランティストでもうっかり”-n”を付け忘れてしまうことがある。筆者もわりと頻繁に書き忘れてしまう。
エスペラント語から派生した別の人工言語群の一つにイドという言葉があるのだが、イドではこの語尾の”-n”は普通、使わないので、このようなミスばかりを繰り替えすと「お前はいつからイディストになったのか」と揶揄されるときもないわけではない(筆者の経験から)。

ヨーロッパの言語の多くは「格」と呼ばれる構造を持つ。言って見れば日本語の「てにをは」である。日本語は体言の最後に「てにをは」をつけるが、ドイツ語やロシア語、ザメンホフの故国のポーランド語は単語に「てにをは」をつけるのではなく、単語自体が変化して「てにをは」を表す構造になっている。
かつて筆者は日本エスペラント協会を訪れたウクライナ系スウェーデン人から、この”-n”のアイデアはドイツ語から借用されてきたと聞いたことがある。確かにドイツ語の定冠詞の男性形の対格、伝統的な文法でいうと「4格」は例えば”den”で、”-n”終わりである。

このように『ことのはアムリラート』にのユリアーモの語尾の「ン」は言葉として非常に大きな役割を果たす一方で、ヨーロッパの言語の長い歴史も共有している。

ところで、ゲーム本編の体験記としては初めて内容に触れる形となるけれども、それにしてはサムネイルがサービスシーンのようなところになっているのが読者の関心を引くのではなかろうか。気にしすぎるのはいいが、プレイヤーの皆さんにはそれと同じくらい”-n”にも注意を払っていただきたい。おそらく語尾に「〜ン」をつけるかつけないか、というようなクイズを出題される気がする。

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ユリアーモ体験記初日 Unua Tago

「ゲームを買うなんて久しぶり」なんて考えながら、パリパリとゲームの箱を保護しているビニールを破いた。今日、著者のDometoに発売されたばかりの『ことのはアムリラート』が届けられた。

我ながらに思うが、よもやこの歳になってからゲームを買うなんて思っていなかった。最後に買ったのはいつだったかよく覚えていない。ただ、ファミコン全盛だったころは手のひらにずっしりとのしかかるソフトの重さとパッケージの箱の綺麗さに未知なる冒険を想像し、空想の世界に旅立っていったものだった。
ところがゲームということは同じだが、大きく違うことがある。このゲームが子供の頃買っていたジャンとは打って変わって「純百合アドベンチャー」というジャンルに属していることだ。おそらく若き日の著者を知る人たちがそれを知ったら大変に誤解されるだろう。「この人は勉強のしすぎで頭がどうにかなってしまったに違いない」、「『魂斗羅スピリッツ』のやりすぎだ」と。

ここで、このゲームを買った言い訳をさせて欲しい。それはこのゲームで「エスペラント語」が使われているからだ、ということになる。
「エスペラント語」とは何だろうか。それは130年程前にポーランド出身のひげのおじいさんが設計した人工言語である。たくさんの言葉が話されていたビャウィストクという地方都市では言葉が違った民族のいさかいの種となっていた。そのおじさんは突飛なことを思いつく。

──自分で言葉を創って、それをみんなで話せば平和になるんじゃないのか?

その結果、できたのが「エスペラント」という言葉だった。エスペラントには「希望する者」という意味がある。ヨーロッパの主要な言葉をかけあわせてできた、英語のような例外ばかりではなくシンプルに、かつ人間の言葉のような意思疎通のための柔軟さを兼ね備えた言葉が出来上がったのだった。
それから130年の間、エスペラント語は世界史の影で活動し続けた。チャップリンの映画にも登場したし、新渡戸稲造からも大プッシュされたし、宮沢賢治の作品にもエスペラント語の影響を受けた表現がたくさん出て来る。『銀河鉄道の夜』なんか特に有名で、岩手をもじってエスペラント語化した「イーハトーヴォ」なる地名として登場している。1966年には『インキュバス』という全編エスペラント語というホラー映画も作られた。

そして先日の『ことのはアムリラート』に時代が到達する。このような歴史の上にこのゲームで使われる言語は存在しているのである。

「人工の言葉ってちゃんと人間同士の会話に使えるの?」という質問はよくある質問の一つだ。ベトナム人で東京で勤務するグエンさんはインタビューにこう答えている:

エスペラントのおかげで仕事関係以外の多くの友人に出会うことができ、日本にやってきた1年目から本当に充実した生活を送っています。…エスペラント語が、こんなふうに自分の世界を広げてくれるとはまったく予想していませんでした

(『通い合う地球のことば 国際語エスペラント』一般財団法人日本エスペラント協会, 2016,p.8)

また、youtubeなどではエスペラント語を勉強した人たちが自分たちがエスペラント語でしゃべってところを撮影し、アップロードしている。例えばアイルランドのダブリンでアイルランド人とロシア人がエスペラント語で会話する、というようなビデオもある。

このようにエスペラント語は人工の言語ではあるものの、立派に人と人とのコミュニケーションに役立てることができる。

ところで、もうあなたは『ことのはアムリラート』のソフトを買っただろうか?取扱説明書がついているのだが、簡単な文法書や単語集の役目を果たしており、ユリアーモ文字に慣れれば皆さんもエスペラント語の世界に簡単に足を踏み入れられる。そして、ゲームをクリアする頃には実際のエスペラント語の知識も身につく(はず)という、実学につながる側面をこのゲームは持っている。

ここで一つ。不定期にではあるが、ゲームのプレイ日記を投稿しようと考えているが注意点がいくつかある。それは下記の通りである:

1.ストーリーやキャラクターのかわいさなどには言及しない(はず)
2.どちらかというとゲーム内の文法がメイン
3.エスペラント語(や多文化)の視点からブログをつける

多くのプレイヤーの方々はルカとのコミュニケーションをどうしようかと頭を悩ませているに違いない。しかし、残念ながらゲームの中の凜と異なり、筆者はユリアーモでの会話に不自由していない。従って、グッドエンディングを迎えられるかどうかは別として、皆さんがよりよくエスペラント語/ユリアーモを楽しめるように影でこっそりとエスペラント語の補講をすることが最大の役目ではないかと捉えている。

このような姿勢の体験記兼ユリアーモの補講であるが、楽しんでいただけたら幸いだ。さきほど著者は次のようなユリアーモに遭遇した次第である:

──ボンヴォール エンヴェーニ(どうぞお入りください)

そして、こうも付け加えておこう:

──エン モンドン デ エスペラント(エスペラントの世界へ)
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お茶の道の復活 Revigliĝo de Granda Tea Vojo

他の言語で何というのかわからないが、Internacia Turisma Asocio de Granda Tea Vojoという団体によると、中国、モンゴル、ロシア三国がシベリア経路で三国をまたぐ「お茶の道」を観光のために再開発することを決定したそうだ。

何故「お茶の道」というのだろうか?China Plusではかつて大量のお茶がこのシベリアルートを経由して中国からヨーロッパに輸入されたと説明している。

しかし一方、最新の研究では分からないが角山栄著『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』中央公論社新書(2011年10月30日が元の電子書籍)によれば:

…シルク・ロードによって中国とヨーロッパが結ばれていたから、茶はかなり早くからヨーロッパに知られていたのではないかと考えてもおかしくない。しかしいまのところ、茶がシルク・ロードをへてヨーロッパにもたらされた証拠はない(No.74/2681 3-5行目)」

…とされる。実は学術的な裏付けがあって、お茶がこのルートを使って運ばれてたと主張しているわけではないようだ。

さて、お茶のことはよく分からないが、エスペランティストは旅行好きな人も多い。実は大きな市場ではないけれど、エスペラント語をしゃべれる人の中にはエスペラント語を使った旅行のプランを計画したり、エスペラント語のガイドさんとしてつきそい、世界中からエスペランティストの自国訪問を誘致する人もいる。筆者が知る限りではそのような人が例えばイランやインド、ロシア、中国、キルギスなどにいる。国内旅行についてウズベキスタンの人とやりとりしたのは記憶に新しい。

このニュースが流れたのは旅行関係のニュースやイベントを取り扱うエスペラント語サイトLa Vojaĝoである。ここで言及されている中国内モンゴル観光発展評議会代表(la Komitato por evoluigo de turismo de ĉina Interna Mongolio*)のチェン・ジャンイン氏は「お茶の道」に沿って三国が観光ルートの整備に一緒に取り組むことに注目しているとのことだった。何故なら三国が共同で快適な旅を観光客に提供するならばインフラ整備やサービス、快適な旅のための条件を向上させるために、最高の可能性を用いるからだ、と同氏は言う。

モンゴルでもエスペラント語のイベントが開かれたことは耳にしている。もしかしたらエスペラント語のガイド、通訳付きでお茶を運んだと”主張されている”歴史的なこのルートを旅できる日が近いのかもしれない。

参考:La vojaĝo: http://vojagxo.info/cinio-rusio-kaj-mongolio-revivigas-grandan-tean-vojon/

*正確な邦訳については不明

Kvankam mi ne neniam aŭskultis kiel oni nomas, laŭ informo de Internacia Turisma Asocio de Granda Tea Vojo, Ĉinujo, Mongolujo, Rusujo dicidis disvolvigi “Tean Vojon”, la transsiberian kaj trilandan vojon.

Do kial oni nomas la vojon kiel “Tea Vojo”? China Plus diras, ke amasa teo estis historike importita el Ĉinujo al Eŭropo trasiberie.

Aliflanke, kvankam mi ne legis la plej novan historian esploradon, “Historio de Teo: Kulturo de Verda Teo kaj Societo de Nigra Teo” de CUNIJAMA Sakae klarigas:

“Estas konsekvenca kiam oni imagas, ke Ĉinujo kaj Eŭropo kontinuas tra Silka Vojo, tiel ke teo estis konata pli frue. Tamen, nuntempe ne estas evidenta pruvo klarigi, ke ĝi estis importita al Eŭropo trasilkvoje”

Do oni ne povas nun aserti, ke historia studo apogas, ke teo estiss portita fakte en tiu vojo.

Parenteze, estas ankaŭ esperantistoj, kiuj amas vojaĝon. Fakte ĝia marketo ne estas vere granda, ekzistas homoj, kiuj parolas Esperanton planas peresperantan kaj poresperantan turismon aŭ invitas alilandajn esperanto-parolantojn de aliaj landoj kaj akompanas gastojn kiel gvidanto. Laŭ mia sperto loĝas tielaj planistoj ekz. en Irano, Barato, Rusujo, Ĉinujo kaj Kirgizujo. La plej nove mi parolis pri tursma projekto kun homo en Uzbekujo.

La novaĵo pri Tea Vojo estis prezentita en “La Vojaĝo”, la esperanta retpaĝo, kiu tememas pri turismorilata novaĵo kaj evento. Cheng Jiangyin de La Komitato por evoluigo de turismo de ĉina Interna Mongolio notis: “turismaj strukturoj de Ĉinio, Rusio kaj Mongolio laboras kune en disvolviĝo de la turisma itinero laŭ la Granda Tea Vojo”. Ĉar “Tri landoj estas uzi plej bonajn turismajn eblecojn por plibonigi kvaliton de infrastrukturo kaj servoj, krei kondiĉojn por komfortaj vojaĝoj”.

Mi aŭskultis, ke en Mongolujo okazis Esperanto-evento. Eble la venonto iĝas proksima, kiam oni povas vojaĝi kun enesperanta gvidanto kaj interpretisto laŭ la historika Granda Tea Vojo, kiu estas asertata, ke ankaŭ amaso de teo vojaĝis…

言葉の適切なシンプルさとは? Kio estas taŭga simpleco de lingvo?

エスペラント語の売りの一つは「簡単さ」である。規則的なアクセント、規則的な造語法、規則的な動詞の変化など、エスペラント語が簡単だと主張するポイントは複数ある。そしてイドを含め、多くの改造エスペラント語が人工言語の歴史上、「生産」されてきたということが、エスペラント語の簡単さを多かれ少なかれ裏付けしているのではないか、と考えるのは早計だろうか?

ところで今日、テトゥン語で初めて作文を試みた。動詞には時制や人称を表すための変化がなく、アルファベットで書かれている。挨拶や感謝の言葉はポルトガル語からの借用語で占められており、覚えるのに時間はかからなかった。代名詞には主語や目的語の区別がなく、とてもシンプルだ。1時間程度でそこそこ長い文章を書けた(ように思えるだけで、ティモール人から見れば実際は変な文なのかもしれない)。

もちろんテトゥン語のような自然言語と違い、エスペラント語の構造が比較的簡単と言われるのはエスペラント語が自然の産物ではなく、人の手によるものだからだ。ただ、作られたからといって、適度な簡単さが得られるわけではない。

例えば他の言葉はどうだろうか。例えばトキポナとイスクイルが頭に浮かぶ(ここで誤解しないで頂きたいのは、トキポナやイスクイルがコミュニケーションに不向きなツール、と断じているわけではないことだ。というのも、これらの言葉が作られた目的は意思疎通のためではなく、人間の認知能力を測るための哲学的挑戦のために作られているからだ)。

例えばトキポナは「私たちの周りにあることを120の単語で理解するための哲学的な挑戦」であるために、とてもシンプルな文法を持ち、かつ単語の意味が多義語的である。例えば”suli”であれば「大きい」でもあるし「偉大な」でもあるし、「高い」という意味でもあり、”telo suli”のように「水(telo)」と組み合わせて「海」という意味になる。また、動物個々を表す単語はなく、動物は”soweli”だけでそれにいわゆる形容詞や名刺をつけて区別をつけていく。だから”soweli suli”といったら「大きい犬」かもしれないし「ライオン」のことを言っているかもしれない。従って、トキポナ同士で話す場合、しばしばお互いの言葉が自分が理解したと思っているかどうか”理解の調節”が必要となるだろう。

逆に世の中の言葉の難しさをつめこんだかのような人工言語といえばイスクイル語だろう。執筆者はこの言葉に明るくないので、作者ジョン・クイハダ(John Quijada)の文法書の例文を紹介する(A Grammar of the Ithkuil Language, p.2):

Tram-mļöi hhâsmařpțôx
(それどころかこの起伏の激しい山があるところで見えなくなることが分かるかもしれないと思う)

この例文はいくつかのパーツから成り立っている:
(1)Tr(a)-=反証
(2)m-mļ-=分かるかもしれない、明らかになるかもしれない
(3)-öi=ある時点で、ある点で
(4)hh-=と思う、という感覚がある
(5)-âsm(a)-=丘
(6)-řpț-=くっついた語幹の事象が複数の非同一的な要素から成り立つ複合体の一つに包含され、かつその総体が徐々に減退する、消えていくことを表す
(7)-ôx=くっつたものがとても大きい形をなしており、かつ概念的に異なった姿になることをあらわす

文法書に従えば上記の意味となるようである。難しすぎる。主観で申し訳ないが、「ことのはアムリラート」で採用されたのがエスペラントでなく、17母音と65子音の鬼畜人工言語のイスクイルだったなら、恐らく主人公の凛はコミュニケーションが取れず、路上で餓死していたかもしれない。

いずれにしても、ここで分かるのは言葉というのは簡単すぎても難しすぎてもコミュニケーションが難しくなる、ということだろう。何が一体、人間にとって適切な簡単さであるのか?エスペラント語とテトゥン語の学習はその示唆に富む。

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Oni certigas, ke Esperanto estas facila: regula akĉento, regula vortokonstruado, regula ŝanĝo de verbo, k.t.p: estas pluraj punktoj por aserti, ke ĝi estas tre facila.
Kaj ĉu estas tre frue juĝi, ĉu kiam multo de esperanto-bazaj esperantidoj inklusive Idon ekzistas jen historio de arte-faritaj lingvo kaj estis “elfarigitaj”, tiam ja apogas verŝajne pli-malpli facilecon de Esperanto?

Parenteze mi spertis hodiaŭ unufoje skribi en la tetuna, la lingvo de Orienta Timoro. Ĝiaj verboj ne havas ŝajne ŝanĝon kaj ĝi estas skribata per latina alfabeto. Salutvortoj kaj dankvortoj estas plenaj je pruntvortoj de la portugala kaj pro tio, ke mi kutimiĝas kun tielaj lingvoj ne daŭris multe da tempo por memori la bazan parton de la lingvon. Krome, ĝiaj pronomoj ne havas distingo inter subjekto kaj objekto: tio portis al mi impreson por tio, ke la tetuna estas tre simpla. En ĉ. unu horo mi povis finskribi longetan tekston (kvankam al mi ŝajnas tiela sed fakte al veraj timoranoj ŝajnas, ke la teksto estas tute stranga verŝajne).


(Lernolibro de la tetuna en japana)

Naturale ne kiel la tetuna, la kialo, kial oni diras, ke Esperanto estas relative facila kaŭzas de tio, ke ĝi ne estas naturaĵom sed inventita lingvo per manoj de la homo. tamen, ĉiuj faritoj nepre havas facilecon ĉiam.

Do kiel estas aliaj arte-faritaj lingvoj? En mia kapo aperas ekz. Tokipona kaj Ikthui.
(*Ne miskomprenu, ke kiam mi ĉi-tie mencias ilin, tiam ne apogas, ke mi ne insistas, ke ili estas npre taŭgaj por interkomunikado, ĉar mi komprenas, ke ili estis dezajnitaj ne por komunikado, sed mezuri homan percepton kiel filozofa provo.)

Tokipona havas ekz. simplan gramatikon kaj multsignifajn vortojn por ke “filozofa provo por kompreni nian vivo per 120 da vortoj”. “Suli” estas ekz. “granda” kaj “alta” kaj “nobla”, kaj oni uzas ĝin en vorto-kombinado kiel “telo suli”, kies signifo estas “maro”. Pluse, Tokipona ne havas konkretajn nomojn por iaj animaloj, sed “soweli”, kaj oni povas distingi, kio “soweli”-oj estas pli konkrete, kiun vi volas mencii nur per vorto-kombinado: per aldono de adjektivoj kaj aliaj nomoj. Sekve se oni diras “soweli suli”, tio signifas verŝajne “granda hundo” aŭ alie “leono”. Pro tio mi kredas, ke oni bezonas eble fojfoje kontroladon de interkompreno unu la alian, kiam oni interne parolas nur en Tokipona.

Male de Tokipona ekzistas lingvo, kies nomo estas Ithkuil, kiu portas al mi impreson por tio, ke malfacileco de ĉiuj lingvoj en la mondo estas eble ja kunmetata. Dirande honeste mi ne scias multe la malfacilaĵon. Pro tio mi prezentas ekzamplon de “A Grammar of Ithkuil Language” de John Quijada, la kreinto de la lingvo(“A Grammar of the Ithkuil Language”, p.2):

Tram-mļöi hhâsmařpțôx
(“Kontraŭe ke laŭ mia penso oni trovas, ke tiu malebena monto foriras en unu loko”)

La ekzamplo konsistas el plure da aldonaĵoj
(1)Tr(a)-=kontraŭe
(2)m-mļ-=oni trovas, troviĝas
(3)-öi=en unu loko, en unu punkto, ie
(4)hh-=mi opinas, pensas, laŭ mia penso kun signofo “verŝajne”
(5)-âsm(a)-=monteto
(6)-řpț-=radiko, kiu estas aldonata tiu aldonaĵo havas signifon por tio, ke ĝi estas unu aĵo, kies tuto konsistas el malsamaj elementoj kaj ĝi apartenas al unu el ili, kaj la tuto malaperas iom post iom
(7)-ôx=radiko, kiu estas aldonata tiu aldonaĵo havas signifon por tio, ke la aldonita havas grandan figuron kaj ideale fariĝas malsama
(monteto”hill”→monto”mountain”)

Laŭ klarigo de la gramatika libro la supra signifas tiele. Estas tro malfacile. Kun pardonpeto mi opinas, ke se en “Kotonoha Amrilato”, la komputila ludo, en kiu aperas Espranto ne estas uzata Esperanton, sed Ithkuil-on, la infernan lingvon kun 17 vokaloj kaj 65 konsonantoj, Rin, la ĉefkaraktero de la ludo eble mortus senmanĝe sur strato, ĉar ŝi ne povas verŝajne komuniki kun aliaj.


(Kotonoha Amrilato, la komputila ludo)

Finfine oni trovas ĉi-tie, ke lingvo estas ne praktika se ĝi estas ĉu tro facila, ĉu tro malfacila. Sekve, kia facileco estas taŭga por interhoma komprenado;komunikado? Lernado de Esperanto kaj la tetuna helpas vin eble.

ことのはアムリラート発売 Kotonoha Amrilato nun havebla

─”Ĉu vi povas helpi al vi?”
エスペラント語がフューチャーされた純百合恋愛ゲーム『ことのはアムリラート』がSukera Sparoから本日発売された(残念なことにウィンドウズなので中の人はプレイできない)。

何故このゲームを、しかも百合の乙女ゲームをここで取り上げるのかというと、興味深いことにゲーム内のコミュニケーションはエスペラント語で行うからだ。その上、クイズ形式でエスペラント語を習得しなければならないため、エスペラント語の勉強にもなる。

主人公、高遠凛が買い物中に迷い込んでしまった異世界でエスペラント語は「ユリアーモ」と呼ばれている。日本語しかしゃべれず、言葉が通じない凛は路地裏で途方に暮れるが、”ĉu vi povas helpi al vi?”と声をかけてくれたルカという異世界の少女の家に身を寄せることになる。一緒に生活をしながら、凛はユリアーモを勉強をし、お互いの理解が深まっていく。二人の関係はどうなるのだろうか?そして、凛は元の世界へ帰れるのだろうか?

─”Ĉu vi povas helpi al vi?”
Komputila ludo, kies nomo estas “Kotonoha Amrilato” kaj en kiu Esperanto estas lernebla iĝis havebla hodiaŭ en vendejo. Ĝi estas produktita de Sukera Sparo(sed bedaŭrinde, ke la aŭtoro ne povas ludi ĝin, ĉar ĝi estas nur por Windows).

La kialo, kial mi temas pri tiu ludo, plidire por samseksamema virino, estas ege interese, ke karakteroj komunikas en Esperanto en la ludo. Krome ĉefkaraktero (laǔnome “vi”) devas lerni Esperanton per kvizo-stila sistemo. Pro tio la ludo estas helpemega altigi kapablon de Esperanton.

TAKATOU Rin, la ĉefkaraktero perdis sian vojon post sia aĉetado kaj eniras alian mondon, kie oni vokas Esperanton kiel “Juliamo”. Ŝi parolas nur la japanan kaj falas finfine en diskomunikado kaj soleco. Kiam ŝi ekmalesperas ekstere, knabino, kiu nomas sin kiel Luka aperis ĵetinte vorton “ĉu vi povas helpi al vi?” al Rin. Luka plenas ŝin sian domon kaj ŝi iĝas kunloĝanto de Luka.
Kien iras la rilato de la du knabinoj? Kaj ĉu Rin povas hejmi en sia mondo?

Esperantistoj en Xinjiang/新疆のエスペランティスト達


ウルムチ (トリップアドバイザー提供)

新疆ウイグル自治区にもエスペラント語を話す人がいるらしい。Libera Folioに掲載された「どうしてエスペラント語は学ばれないのか」という記事で注目を浴びたエスペランティスト、Solis(Liu Xiaozhe)氏もその一人である。

同氏のブログの「中国にどれくらいエスペラントを話せるのか」という記事の報告では、新疆ウイグル自治区のような中国の果てのような地域であっても、数は少ないけれども5人ほどのエスペラント語を話せる人たちが暮らしている、とのことである。

人工言語がこのような場所でも学ばれ、話されていることは驚くべきことではなかろうか?

Oni diras,ke en Ujgura Aŭtonoma Regiono de Ŝinĝjango(Xinjiang) loĝas esperantistoj.

Unu el ili estas s-ro Solis, kies artikolo “Kial oni lernas Esperanton” publikiĝis en Libera Folio kaj kiun al oni interesas kiel ĝia aŭtoro.

Laŭ “Kiom da parolantoj de Esperanto en Ĉinio?” en lia blogo, estas raportata, ke eĉ en fino de Ĉinujo ekzistas tiuj,kiuj parolas Eon kaj nombras 5 homojn, kiuj havas kapablon uzi ĝin, kvankam aspektas malmulte, tamen ĉu vi pensas, ke tio estas iom mirinda, kiam la arite-faritan lingvon oni lernas kaj prolas en tiela loko?

参照元/Fono:
(1)http://reto.cn/php/esperanto/kiom-da-parolantoj-de-esperanto-en-cinio/
(2)http://www.liberafolio.org/2017/06/23/kial-oni-ne-lernas-esperanton/

プーチン「音楽はエスペラント語のよう」/Putin diras: Muziko estas kiel Esperanto

 

ロシアのKoktebel Jazz Partyにおいて下記のようなことをゲストとして招待されたプーチン大統領がスピーチしたとの報道がなされた。

 ”2003年以来、私から見ても、このような祭典が開かれてきたのは素晴らしいことだ。今回のために世界から150もの類稀なるジャズバンドたちが結集した。そして今年でそれが10回目を迎えるのだから。音楽とは…それはすなわち言葉のよう、そう、エスペラントのような国際的な言語のようなものなのだ”

Vladimir Putin menciis Esperanton: Muziko estas kiel Esperanto

En Koktebel Jazz Party s-ro Prezidanto Vladimir Putin kiel gasto menciis Esperanton dirinde la suban:

 ”Ekde la jaro 2003, laŭ mia penso, okazis tiela mirindkvalita festivalo.Por tiu oportuno kollektiĝis 150 gravaj ĵazaj grupoj de la mondo, kaj per tio nombras la 10-an. Muziko estas kiel lingvo, ĉi-tie mi havas unu ekzamplon, Esperanton — internacian lingvon, kiu kunligas homojn”

元/Fono:https://ru.sputnik.kg/video/20170821/1034805478/putin-na-koktebel-jazz-party.html
(原文ロシア語/De la rusa de S. Masaja)

新ホームページ公開/Publikigo de nia nova hejmpaĝo

Saluton, 日本青年エスペラント連絡会の新ホームページへようこそ。

私たち日本青年エスペラント連絡会(JEJ)は日本における青年のエスペラント語にふれるためのきっかけを作るため、今年から活動の立て直しを図ってきました。その中でこのように、新たな形で私たちの活動や世界のエスペラント関係のニュースが発信できるようになりました。
これにより、また新しい気持ちで日本の若者のエスペラント運動に寄与できれば幸甚です。

今後とも宜しくお願い致します。

日本青年エスペラント連絡会 代表
瀬下政也

Saluton, bonvenon al nia nova hejmpaĝo!

Ni Japana Esperanto-Junularo aktivadas ekde ĉi-tia estroperiodo, por ke revigligu nian organizan sistemon kaj rilaksu nian movadan rigidiĝon. Kaj finfine rezultigis tion, ke ni povis diskonigi niajn aktivaĵojn kaj Esperanto-rilatajn novaĵojn de la mondo kun la “nova formo”.

Per tiu hejmpaĝo, estas tre ĝoje, ke nia aktivado kontribuas al E-movado de japana junularo plu.

Dankegon antaŭe

Prezidanto de Japana Esperanto-Junularo
S. Masaja