ユリアーモ体験記六日目 Sesa Tago

一体どこでボタンを掛け違えたのだろうか。いつも最上の選択をしてきたつもりだった。自分の善意に忠実に選択してきたはずだった。しかし、その終わり方はあまり晴れ晴れとしない。この心の中のわだかまりはなんなんだろうか。凜の表情は冴えない。心には影。しかし、もう戻れない。凜は大切なものを棄てる選択をしたのだから…

プレイ日記六日目にしてとうとう一つのエンディングを迎えた。しかしながら、何かが悪かったようで大円団とはならなかった。もしかしたら掛け違えたボタンは唯一間違えた「ボール」だったのかもしれない。あるいは体の部位の勉強で触りすぎてルカの好感度が下がるフラグが立ってしまったのかもしれない。色々思うところはあるが、ハッピーエンドを期待していた筆者にとって、しこりが残るエンディングを迎えたのは意外だった。凜と私は単なる道化に過ぎなかったのだろうか。

この結末を迎えて頭に浮かんだのは次の言葉だ。ハムレットの『マクベス』の有名な台詞である。散々努力した結果、エンディングでは予想していた結末と違っていた、という想いからだ。

消えろ、消えろ、つかの間の燈し火!
人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。
あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、
みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのとまりは消えてなくなる。
白痴のおしゃべり同然、がやがやわやわや、すさまじいばかり、
何の取りとめもありはせぬ。
(シェイクスピア、福田垣存訳『マクベス』新潮出版,1969)

ところで、エスペラント語ではどうなのだろうか。エスペラント語版は1908年にイギリスでダニエル・ヘンリー・ランバートというエスペランティストが初期の近代英語からエスペラント語へ翻訳している。彼は英国エスペラント協会を設立した初期メンバーの一人でもある。翻訳したものはグーテンベルク・プロジェクトで掲載されている。

Mallongviva
Kandelo, estingiĝu! Ĉar la homo
Promenas kvazaŭ moviĝanta ombro,
La rolon ludas de aktor’ mallerta,
Sur la scenej’ ne longe grimacanta,
Kaj poste malaperas. Homa vivo
Nur estas la rakont’ de malsaĝulo,
Freneze sensencaĵojn krieganta
Sen ritmo kaj sen celo.

そしてグーテンベルク・プロジェクトに載せられているシェイクスピア原文は下記の通りである:

Out, out, breefe Candle,
Life’s but a walking Shadow, a poore Player,
That struts and frets his houre vpon the Stage,
And then is heard no more. It is a Tale
Told by an Ideot, full of sound and fury
Signifying nothing.

ランバートがシェイクスピアをどれくらい研究したのか筆者は知らない。しかしながら、例えば日本語と英語を比較すると、日本語訳は英語原文をよく意識されていることが、例えば”out,out”の繰り返しなどから分かる。

一方でランバートのエスペラント語の翻訳はよく分析されているが、説明くさい。説明的な翻訳が目につくのである。例えば”Life’s but a walking Shadow(人生とは然し歩き回る影である)“という文はエスペラント語では、どういういわけか”Ĉar la homo promenas kvazaŭ moviĝanta ombro(何故なら人はあたかも動きまわる影の如く歩くからだ)”とされており、原文の暗喩の美しさが失われてしまっている。このセリフは劇の重要なセリフであるとともに、ニヒリズム的性格の思想が見え隠れする、作者シェイクスピアの人生観を表すものと考えられる。そのため、このランバートの訳の評価は厳しいのではないだろうか(想像だが、この人は劇場に足を運ばず、机の上で本だけを見て、初期英語の辞書を引きながら頑張って翻訳を進めたのかもしれない)。

しかしながら、文学の翻訳活動は初期のエスペラント語文学にとって重要なことだった。何故ならエスペラント語はその特質から、古英語の『ベーオウルフ』や日本の『古事記』のような民族を母体とした文学作品が発生し得ないからだ。従って、自分で作るしかない。

方法は二つ:一つはオリジナルを作ること。実際、初期(19世紀後期)のザメンホフを筆頭とした最初期のエスペランティストたちは、ザメンホフの最初のエスペラント語詩”Ho mia koro”のように、自分で詩作を行っていた。二つ目は上記で述べられてきた翻訳だ。例えばザメンホフはUnua libroの頃から『ハムレット』やハイネの詩、『聖書』の翻訳に精力的だった。世界の文学をエスペラント語に取り込むことにより、エスペラント語がより進化すると考えていたのかもしれない。

そのような流れの中でイギリスからランバートの『マクベス』が出てきたのであれば、エスペラント語の文学史として評価に値するものではないのだろうか。

最近ではありがたいことに『ことのはアムリラート』が話題に上ることが多く、二次創作小説も少しづつ増えてきた。日常的にエスペラント語(ただし、ユリアーモ文字だが)を見かけるようになったのは嬉しいことである。これは単純に「ことのは」ファンによる同人作品という一点で捉えることもできれば、エスペラント語をより進化させるための活動になるのではなかろうかと思案することもできる。そのような意味で、私たちはエスペラント語の歴史の最先端を歩んでいるのである。

さて、ハッピーエンディングはあるのか探さねばなるまい。やはり一線を越えず、プラトニックな関係を続ける選択をしてみようか。また冒険に出かけよう。凜をマクベスの言う”あわれな役者”にさせないために。

*ユリアーモ変換プログラムは夏野すぐる様に使用の許可を頂きました。感謝申し上げます。
*掲載許可はSukera Sparo様に頂いております。画像の著作権はSukera Sparo様に帰属致します。

 

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